ここに紹介した関戸合戦に関わる伝承は、近世以降に形成あるいは再生産されたと考えられるものが多いようである。特に、文人としても活動していた関戸村名主の相沢伴主のてこ入れによる伝承の形成過程は無視しがたいものがある。さきに紹介した小野一之氏も述べるように、関戸合戦の伝承形成過程には版本の『太平記』版行や太平記読みなどの活動が基礎にあったとすることができる。このことは、直接合戦の惨禍に巻き込まれた庶民の観点というよりも『太平記』を通じて形成された第三者的な英雄史観の影響のもとに関戸合戦に関する伝承が形成されたと見ることができる。ただし、伝承一般が全てこの様な過程で形成されたものばかりではなく、事実を伝えるものも少なくはなかろう。要は、伝承についても厳密な史料批判を行なわなければならないのである。最後に古歌に見られる「玉川の里」について各地で比定作業が行なわれていることについて、相沢伴主が『関戸旧記』において批判している文章を掲げよう。
「ソレヲ今、処々ニテコソ爰ト押充フハ昔ノ事ヲ分別セズ、唯旧跡ヲ羨ミ思ヒテ云ナルベシ。殊ニ江戸近キ処ナドハ、其処ノニキハヒ(にぎわい)ニモナラントテ、爰ガ玉川ノ里ナリナド云ヒ、或ハ碑ナド建タル処モアル様ニ聞ユルハ、皆古ヲ考合セザルナルベシ。」