建武新政権の成立

631 ~ 633
正慶二年(元弘三年=一三三三)鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇はただちに幕府の擁立した光厳天皇を廃して年号を正慶から元弘に復し、六月五日帰京すると天皇中心の政治を開始した。後醍醐の新政は翌年建武と改元したことから建武新政と呼ばれる。後醍醐の目指した公家一統の政治は、「延喜・天暦の治にかえれ」をスローガンに幕府政治を否定し、また摂政・関白・院をも排除する天皇親政であった。「朕ノ新儀ハ未来ノ先例タルベシ」(『梅松論』)の言葉に表されるように、天皇独裁体制を打ち立てるため後醍醐はそれまでの貴族社会や武家社会の先例や慣習を無視した改革を推し進めたが、それに伴う混乱や抵抗は大きかった。特に所領問題での新政の失策・不手際は武士たちの不満や、旧幕府御家人等の危機感を募らせることとなった。

図5―44 後醍醐天皇像

 このようななかで足利高氏(尊氏)は六波羅探題の跡に奉行所を設け旧探題の職員や諸国武士を麾下におさめ、武家勢力を結集し着実にその地歩を固めつつあった。鎌倉幕府の根拠地であった鎌倉では、新田義貞とともに北条氏を滅ぼした尊氏嫡男千寿王(義詮)が義貞を圧倒し、斯波家長らの補佐のもと東国武士を糾合して東国における足場を固めていた。元弘三年八月の除目で高氏は武蔵守に補任され、後醍醐の諱の一字をもらって尊氏と改めた。武蔵国は鎌倉時代北条氏の得宗分国となっており、尊氏が武蔵守に任じられたのは尊氏の要請に基づくものであったとみられている。後醍醐は地方行政についても知行国制を否定して、天皇が直接統治する中央集権的な国司制度の復活を目指したものの、鎌倉幕府の所産である守護については現実問題として置かざるをえず、武蔵国では尊氏が国司・守護を兼帯した。同じころ尊氏・直義とその一党に討幕の恩賞が与えられ、尊氏には伊勢国柳御厨はじめ二九か所の地頭職が与えられ、直義には相模国絃間(つるま)郷他十四か所の地頭職が与えられた(比志島文書)。そのほとんどが北条氏とその一族の旧領であり、武蔵国では尊氏に久良郡(久良岐郡)、足立郡、麻生郷、直義に赤塚(豊島区)があった。
 尊氏が武蔵守に任命されたのと同時に、関東の足利勢力を牽制するため、北畠顕家が陸奥守に任じられ、義良親王を擁して奥州多賀国府に下向した。陸奥の多賀国府には引付・政所・侍所・式評定衆・寺社奉行・安堵奉行が設置されてさながら小幕府の様相を呈した。これに対して同年十一月、直義が相模守に任じられ、翌月成良親王を奉じて関東に下向し、鎌倉にも関東十か国を管轄する政庁が設置された。鎌倉には関東廂番という御所警固の番役が設置されたが、これは引付・内談の機能を有していたという(福田一九八一)。このように地方組織では旧幕府的要素を濃厚に包含し、旧幕府の制度を継承していた。
  福田豊彦「室町幕府の御家人と御家人制」『御家人制の研究』一九八一年