中先代の乱

633 ~ 634
地方では北条氏旧領を中心として新政のはじめから新政および足利氏の勢力に反発する北条氏残党の反乱が続いていた。武蔵国でも建武元年(一三三四)三月、北条氏譜代の臣渋谷・本間氏らが兵を起こして鎌倉を襲い、足利氏の一族渋川義季がこれを撃退しており、八月には江戸・葛西氏が蜂起した(佐藤一九七四)。
 建武二年(一三三五)六月、鎌倉幕府最後の関東申次であった西園寺公宗が北条氏残党と結んで政権転覆を謀った計画が発覚し、公宗らが逮捕された。『太平記』によれば、時興と改名して京都に潜入し公宗にかくまわれていた北条高時弟泰家が京都の大将となり、信濃にいた高時遺児時行、北条氏一族で越中守護であった名越時兼らと呼応して兵を起こす計画であったという。その翌月、時行が信濃に蜂起した。信濃国は代々北条氏が守護をつとめていた国で諏訪氏・滋野氏など北条氏譜代の家臣も多かった。時行軍は七月十四日蜂起して守護小笠原貞宗を破り、七月二十二日武蔵に入った。新田義貞の鎌倉攻めに続いて再び鎌倉街道上道沿いでは、南下する時行軍とそれを阻止するため鎌倉の足利直義が遣わした軍勢との間で激しい戦闘が行なわれた。女影原(埼玉県日高市)・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)の戦いでは、足利氏一族の渋川義季・岩松経家が敗れて自害し、時行軍は武蔵府中へ侵攻した。府中では小山秀朝が敗れ一族・家人ら五〇〇余人とともに自害した。これによって直義は自ら出陣して井手の沢(町田市)で時行軍を迎え撃ったが、これも敗れ直義は東海道を三河まで敗走した。井手の沢は『宴曲抄』「善光寺修行」のなかで善光寺に詣でる途中の地名のなかにも詠まれており、鎌倉街道上道の有名な地名で、現在の町田市本町田の菅原神社裏手一帯の凹地に比定されている(資一―643)。現在は埋め立てられて市営グラウンド・市営体育館となっているが、かつてはかなり豊富な湧水地帯であったという。この建設工事の際には文保二年(一三一八)の板碑をはじめ南北朝・室町期の板碑二十基が出土している。井手の沢の戦いで勢いづいた時行軍は七月二十五日鎌倉へ入った。この乱を中先代の乱とよぶ。これは北条氏を先代、足利氏を後代とし、時行を中先代といったことによる。しかし時行はこの後わずか二〇日ばかりで尊氏の軍勢に鎌倉を追われることになる。

図5―45 井手の沢跡

  佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』一九七四年