尊氏の東下

634 ~ 635
足利尊氏は京都で時行蜂起の報を得ると、後醍醐に時行討伐の許可を求め、征夷大将軍および総追捕使への任命を要求した。しかし後醍醐はこれを認めず、成良親王を征夷大将軍に任じ、尊氏は公認を得られぬまま京を発向した。三河では直義が成良親王を京都にかえしてそのまま軍をとどめていた。尊氏は三河矢作宿で直義に迎えられ、八月九日遠江橋本での合戦を皮切りに、小夜中山・駿河国府・高橋・清見・箱根・相模川で時行軍と戦い、十九日鎌倉を奪回した。時行は逃走し、諏訪頼重らは自害した。関戸合戦で新田義貞と戦って壮絶な討ち死にを遂げた安保道潭の子息も鎌倉で自害したという(資一―663)。安保氏の一族で尊氏に従った安保光泰は、遠江橋本合戦で戦功を挙げ、その賞として安保家家督であった道潭の跡を拝領した。一族兄弟が敵味方となって戦うことは、これまでにもしばしば家名や家産の保持のために行なわれてきたことであった。しかしこの時期武士の家では分割相続から嫡子の単独相続に移行しつつあり、惣庶間の対立が激化していた。ともすれば惣領の家臣並みの地位に置かれた庶子にとって、南北朝の内乱は自立する絶好の機会を与えることになったのであり、内乱が長期化し複雑化したのはその折々の政治情勢とともにこうした武士団内部の分裂が絡み合っていたからであった。
 中先代の乱の後、後醍醐は尊氏に帰京命令を出し、武士への恩賞は綸旨をもって行なうことを伝えた。しかし尊氏はなおも鎌倉に居座りつづけ、後醍醐に反旗を翻した。