南北朝の分立

635 ~ 636
中先代の乱の後、鎌倉に居座る足利尊氏は後醍醐からの帰還命令を無視し、建武政権と足利尊氏の対立は明確になった。その間、尊氏は若宮小路の旧将軍邸跡に新居を構え、征夷大将軍を自称し、新田義貞の分国上野国に上杉憲房を向わせ、斯波家長を陸奥に派遣して陸奥守北畠顕家に対峙(たいじ)させた。さらに建武二年(一三三五)十一月二日、足利直義は新田義貞追討を名目として諸国の武士を動員した。これに対して後醍醐は、十一月十九日尊良親王・新田義貞等を追討軍として関東に発遣した。尊氏は、十二月十二日に駿河国竹の下で追討軍を迎撃し敗走させた。その後、敗走する追討軍を追撃しながら東海道を上った尊氏は、建武三年一月十一日京都を占領した。
 後醍醐は、直ちに近江国東坂本に逃れ、反撃の態勢を整えた。その主力となったのが長駆陸奥国より足利軍を追ってきた北畠顕家の軍勢である。顕家は二十七日に京都を奪還し、各地で足利軍を破り遂に尊氏を九州に退けた。九州で再起を計る尊氏は、筑前多々良浜の合戦で肥後の菊池・阿蘇氏を中心とする軍勢を撃破し、九州での地歩を固めた。この九州での一連の合戦には、鎌倉時代に薩摩国甑島の地頭として西遷していた日奉氏の一族西小河季久も尊氏方として参戦している。
 九州や中国地方で尊氏与党を糾合した尊氏は、摂津国兵庫に軍勢を進め新田義貞・楠木正成等の軍勢に戦いを挑んだ。この湊川の合戦は尊氏方の勝利に帰し、再び尊氏は京都に進駐、後醍醐は比叡山に逃れた。
 京都を回復した尊氏は、八月十五日に持明院統の豊仁親王を光明天皇とし、光厳上皇による院政を開くことが決められた。一方、尊氏は比叡山に籠る後醍醐に対して講和交渉を始め、大覚寺・持明院両統の迭立(てつりつ)などを条件に講和を成功させ、後醍醐は下山した。講和に応じた後醍醐は直ちに花山院に幽閉されたが、越前・伊勢・河内・大和・紀伊に後醍醐与党勢力を配置することも忘れなかった。この様な緊張関係の中、十一月二日に光明天皇への神器授受が行なわれたが、新体制への不満が募る後醍醐は建武三年(一三三六)十二月二十一日に京都を脱出し、大和国吉野に赴いた。ここに吉野の南朝と京都の北朝が対立することになる。