『建武式目』は、是円(中原章賢)・真恵兄弟を中心に学者藤原(日野)藤範・玄恵等八名の答申という形式をとっていた。彼等のほとんどは後に尊氏の弟直義の支配下に属して活動しており、『建武式目』の制定も直義の影響下にあったものと考えられている。事実、直義は室町幕府の行政・司法面を統轄しており、初期室町幕府の主権は尊氏と直義兄弟により二分されていた。すなわち尊氏は軍事指揮権や行賞権などの主従制的支配権を掌握し、直義は民事裁判権・所領安堵権などの統治権的支配権を行使していた。
図5―46 室町幕府初期の官制体系図
この様な初期室町幕府の二頭制は、必然的にそれぞれの政治勢力の結集を誘起することとなり、後の観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれる内乱を生む要因となった。これについて南北朝期の武将として著名な今川了俊の著とされる『難太平記』には、「両御所に思ひ思ひに付申き。其時も諸人の存様は大休寺殿(直義)は政道私わたらせ給はねば捨がたし。大御所(尊氏)は弓矢の将軍にて更に私曲わたらせ給はず。是また捨申がたしと也。」と記されている。