北畠顕家の府中侵攻

637 ~ 638
奥州から長駆して尊氏を京都から駆逐した北畠顕家は、足利与党の軍勢に行く手を阻まれながらも奥州に帰還していた。その間、後醍醐による京都包囲網は徐々に綻(ほころ)びを見せつつあった。越前国金ケ崎城に拠っていた新田義貞は斯波高経・高師泰等の攻撃を受け劣勢に立たされていた。奥州においても常陸国瓜連城が陥落し陸奥国府である多賀城も危うくなり、顕家は霊山に本拠を移した。この様な状況の中、顕家には後醍醐や父北畠親房からの上洛要請がもたらされていた。
 自らも劣勢に立たされていた顕家は、この要請に応じ延元二年(一三三七)八月中旬に上洛の途についた。奥州の軍勢を率いた顕家は下野・上野を進路に選び、途中各地の軍勢を吸収しながら当面鎌倉を目指して進軍した。十二月十三日には利根川を渡河する際に、鎌倉にあった足利義詮が差し向けた上杉憲顕等の軍勢と遭遇し、これを退けた。この合戦を利根川の合戦という。その後、武蔵国安保原や浅見山で足利軍と合戦を行ない、武蔵府中に入り五日間逗留した。この北畠軍の府中逗留の様子は明らかではないが、『太平記』巻十九には北畠軍の進軍の様子を描写している部分がある。これによれば、「元来無慚無愧ノ夷共ナレバ、路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼払フ。惣此勢ノ打過ケル跡、塵ヲ払テ海道二三里ガ間ニハ、在家ノ一宇モ残ラズ草木ノ一本モ無カリケリ。」とあり、彼等の略奪・濫妨の様子が明らかで、敵地であった武蔵府中周辺も北畠軍逗留の間に同じ様な状況にさらされていたに違いない。もっともこの様な行為は、北畠軍が特殊であったのではなく、当時の軍勢は軍備や食料に至るまで原則自給であったので、現地調達も一般的であったようである。さらにいえば、軍事行動における戦闘員の収入は、恩賞ばかりではなくこの様な敵地における略奪も大きな部分を占めていたと考えられる(藤木一九九五)。
 武蔵国各地で北畠軍に撃破された足利軍は、鎌倉に立籠り迎撃態勢をとった。十二月二十四日北畠軍は鎌倉に押寄せ、遂に鎌倉を占領した。鎌倉を占領した顕家は、翌延元三年一月二日、鎌倉を出発し上洛を目指した。しかし、戦況は顕家に利あらず美濃国青野原での合戦に破れると、伊勢・伊賀に進路をとり大和国奈良においても幕府軍に破れ、河内国に逃れた。再び上洛を試みた顕家は、五月二十五日和泉国堺阿倍野において敗死した。一方、新田義貞も暦応元年(一三三八)閏七月、藤島の戦いで敗死している。
  藤木久志『雑兵たちの戦場』一九九五年