この状況に対して鎌倉の足利義詮を中心に関東に勢力を持つ幕府方は、暦応二年四月に高師冬を武蔵守護に任じて義詮に増援した。六月に鎌倉に到着した師冬は、武蔵・相模の武士を徴集し八月には鎌倉を出発し、十月に両軍の戦端は開かれた。幕府軍は苦戦を強いられ、合戦中に帰国する武士が相次ぐ状態であったが、徐々に親房等の軍勢を追い詰め、ようやく幕府方の軍勢が南朝方の諸城を陥落させたのは康永二年(一三四三)二月のことであった。この長期に及ぶ合戦を常陸合戦と呼ぶが、この合戦の勝利により幕府方は関東の全域をとりあえずは勢力下におさめたことになる(磯崎一九九三)。
この常陸合戦には、立河二郎左衛門尉・山内経之や高幡高麗氏の一族と考えられる「たかはた殿」などの多摩市周辺の武士たちの参戦が確認される。
磯崎達朗「常陸合戦と関東」『日野市史史料集 高幡不動胎内文書編』一九九三年