高幡不動胎内文書と山内経之

639 ~ 641
常陸合戦に参戦した多摩市周辺の武士の内、土淵郷内に本拠を置いていたと考えられる山内経之は、戦地から残された家族に宛てた書状を出しており、その書状を含む史料群が高幡不動胎内文書として残されている。この高幡不動胎内文書は、日野市高幡に所在する高幡山金剛寺の本尊木造不動明王座像の像内から発見されたもので、裏面あるいは表面に不動明王または大黒天の印仏が捺されている書状六八通七三点から構成される。高幡不動胎内文書は、右記のように印仏が捺され、長い間像内にあったためか傷みが激しく、しかも短冊状に切断されているものもあるため、解読が大変困難であったが、『日野市史史料集 高幡不動胎内文書編』の刊行により利用しやすくなっている。

図5―47 山内経之書状
『高幡不動胎内文書』日野市金剛寺蔵

 山内経之は、相模国鎌倉郡山内を本貫とする山内首藤氏の一族と考えられる。山内首藤氏は、備後国地毗荘に西遷した一族が著名であるが、陸奥国会津郡・桃生郡に展開した一族も知られる。高幡不動胎内文書に残された山内経之の書状の中には「ぬまと(沼津)へ下へき事におもひ候て、」「身ハぬまと(沼津)へまかり候ハんと存候也、」などとあり、陸奥国桃生郡沼津(宮城県石巻市)との関連は明らかであろう。また、陸奥に所領を展開していた曽我氏についても山内経之は、「そか(曽我)とのもはやたち候よし申候、」「又そか(曽我)とのも上候ハヽと存候て」とその動向について特に書状に記している。これらの事から、山内経之は陸奥山内氏と深い関わりを持つ人物であったことが推測される。あるいは、経之自身が奥州の出身ではなかったかとも考えられる。
 ところで、山内経之の所領があった土淵郷の隣郷得恒郷を中心に勢力を持っていた高麗氏も陸奥国に所領があり、曽我氏とも姻戚関係にあった(遠野南部文書)。高麗氏の本宗家は武蔵国高麗郡・入間郡西部に所領を展開しており、山内経之の所領「かさハた(笠幡)」「かしハバら(柏原)」―それぞれ埼玉県川越市笠幡、同狭山市柏原に比定される。―に近接している。特に、笠幡は高麗氏本宗家の所領としても見えており、笠幡の小字に見える大町は高幡高麗氏の所領として確認される。このように山内経之は、武蔵国多摩郡以外に陸奥国と武蔵国高麗郡・入間郡においても高麗氏との関連が考えられる。のちに述べるが、山内経之の土淵郷における経営基盤は薄弱で、その経営も高幡高麗氏の一族と考えられる「あらいとの(新井殿)」に依存することもあったようである。以上のように山内経之と高麗氏の関係が密であることから、奥州における地縁により高麗氏との姻戚関係をもった山内氏が土淵郷に所領を得て、この地に入部してきたのではないかと考えられる。
 山内経之の経済状態は、分倍河原合戦・関戸合戦以降の戦乱の影響もあろうが極めて困窮していた。経之は常陸合戦に出陣する以前から「ひこ六郎殿」「かくしん」等の所領濫妨を受けており、そのための訴訟費用の捻出にも事欠いていたようである。この時期、高幡高麗氏等により高幡山金剛寺の不動堂・不動明王像などの修造が行なわれていた事実があり、経之の経済的困窮は、多摩川中流域の領主一般の事象ではなく経之個別の問題として考えたほうがよさそうである。経之の書状からは所領(沼津)に下向するための乗り換えの馬を準備出来ない様子や、領民からの年貢・公事が収納できず、新井殿を始め金剛寺や関戸観音堂に米銭を借用しようとしていることが見られる。また、常陸出陣にあたっては後事を新井殿に託している様子や、留守宅には頼りになる従者がいない事も窺う事が出来る。これらの事は、経之の所領掌握が貧弱であった事を示すものであろう。その原因は、山内氏の土淵郷入部がまだ日が浅かったことに起因するものではなかろうか。