ともあれ、軍勢徴発に応じた山内経之は、従軍へ向けて準備を始める。当時の武士の従軍においては武具、戦闘員・非戦闘員を含む従者、馬、兵粮などに至るまで自弁が原則だとされている。経済的に困窮していた経之は、いかに従軍準備を進めたのであろうか。
山内経之は、合戦準備の用途を得るため所領内の百姓に天役をかけたが、百姓等の抵抗を受け、従者に作物の差押えを命じている。しかし、これだけでは十分な用途が確保できなかったようで、武具等の調達のために自らの所領の一部である在家(ざいけ)一宇を売却しなければならなかった。また、そのほかにも近隣の領主である新井殿や高幡不動・関戸観音堂の僧侶などに対して借銭・借米を申し入れている。その上、所領の経営基盤が不安定な経之は、主な従者を合戦に伴わなければならず、従軍中の留守を新井殿に託さなければならない状況であった。この常陸合戦のみならず中世の合戦一般は、弱小の領主たちには多大な経済的負担を強いるものであった。
暦応二年八月に鎌倉を出発した師冬軍は、武蔵府中を通過して九月には武蔵国大里郡村岡宿(埼玉県熊谷市)に駐留した。ここでも、すでに経之の資金が乏しくなっており、留守宅のみではなく新井殿にも滞在費用を無心している有様であった。
経之が従軍している師冬軍は、十月には下総国山川(茨城県結城市)に陣を移した。この山川でも経之は、乗馬・馬具などに不足をきたし留守宅に調達を命じている(十六日)。南朝軍の拠点のひとつである駒城(茨城県下妻市)への攻撃が始まった十月二十三日以降、ついには「又ども(=従者)」の逃亡が続き、経之は逃亡者本人あるいはその子供を捕らえて戦場に戻すように命じている。
この駒城における攻防は、激烈を極めたようである。山内首藤時通に下された暦応二年十二月十三日付けの高師冬奉書(山内首藤家文書)には、「常州并に下総国凶徒誅罰の事。駒館城合戦の最中、軍勢多く帰国の処、今に忠節の条もっとも神妙なり。」とあり、従者のみではなく軍勢催促に応じていた武士等も戦場から離脱していた事がわかる。
経之自身も逃亡する従者の多さに悩まされ、自らも兜・馬を失い人から貸し与えられて戦闘を続けていた。この様な激戦の中でも経之は、留守を守る妻子を心遣い、所領経営に心砕く書状を送っているが、それらの書状の中にも「人/\これほと(程)うたれ、てをひ(手負)候に」と、戦場の悲惨さが伝わってくる。
ところで、これほどの犠牲を強いられる合戦において見返りとなる恩賞はどの様な手続で下されるのであろうか。その手順として最も重要なのが戦功の認定である。そして、その戦功の主要な部分を敵兵の殺傷と自身の構成する戦闘集団構成員の死傷である。これらの戦功を軍勢の指揮官である大将や奉行から認められるには、自ら軍忠状(ぐんちゅうじょう)・合戦手負注文(がっせんておいちゅうもん)などの文書を作成し申告しなければならない。その時、同じ戦場にいた武士から間違い無いとの証言が得られれば更に有効となる。この申告を認められれば、申告した軍忠状等の文書に大将などの証判(サイン)が書き加えられ、後日の論功行賞の際の証拠文書となる訳である。この軍忠状の実例については、資料編にも採録しているので参照して頂きたい(資一―660・661・675・676など)。山内経之が作成した軍忠状は現在残されていないが、一連の合戦における戦功を「三かハとの(三河殿)(高師冬)」に抽賞された記述が見え、経之自身もこの様な文書を作成していたのであろう。
駒城の攻防において激しい戦闘が繰り返される中、従者も戦闘で失ってしまった経之は、書状の中で「いとまとも申候て下たく候へとも、かたき(敵)のしやう(城)もちかく候ほとに、中/\とおほえて候」と、帰りたくとも帰れない状況を述べている。高幡不動胎内文書に見る経之の書状は、常陸合戦の中でも緒戦の内に入る駒城合戦の最中でとぎれてしまう。この後、多摩川中流域の中世史からも山内氏が登場しない事からも、経之は暦応三年(一三四〇)五月の駒城陥落を見ずして戦死してしまったであろう事が大方の解釈である(小川一九九一・一九九五、峰岸一九九二)。
図5―48 常陸合戦関係地図
小川信「南北朝期に於ける在地領主の実態と合戦の一断面」『国学院大学大学院紀要文学研究科』二二、一九九一年
小川信「高幡不動胎内文書の解明と問題点」『武蔵野』三二六、一九九五年
峰岸純夫「多摩川中流域の中世」『多摩のあゆみ』六六、一九九二年