観応の擾乱(じょうらん)

644 ~ 645
常陸合戦の勝利によって関東ではひとまず南朝勢力の抵抗はおさまった。しかしその間幕府では、政務の中心にあった足利直義と尊氏の執事高師直とが政治姿勢の違いなどからそれぞれ派閥を形成し対立を深めつつあり、貞和五年(一三四九)閏六月、直義が尊氏に要求して高師直の執事職を罷免したことに端を発して、両派の勢力争いは幕府を二分し、その配下の武士らをまきこんで全国各地で激しい騒乱を引き起こした。直義の先制に対して師直は、同年八月、クーデターを起こして直義を政務から退け、執事に復帰した。反師直の中心であった上杉重能・畠山直宗ら直義側近も殺害され、直義は出家を余儀なくされた。政務は尊氏嫡子義詮に譲られることになり、鎌倉にいた義詮は九月に入洛し、鎌倉へは尊氏男で直義の猶子となっていた基氏(当時九歳)が下されることになった。関東ではこの鎌倉府を中心として両派の抗争が展開していくことになる。
 鎌倉府は尊氏によって鎌倉時代以来の武家政権の根拠地関東を支配するために置かれた政庁であるが、その淵源は新田義貞とともに北条氏を攻めて鎌倉に入った尊氏嫡子義詮が、北条氏滅亡後も鎌倉に駐め置かれたところにある。建武政権下では奥州に義良親王と北畠顕家が下されたのに対抗して、直義が成良親王を奉じて鎌倉に下向し関東十か国を統括した。尊氏が後醍醐に反旗を翻し、尊氏・直義が西上した後も、義詮は鎌倉にあって執事斯波家長の補佐のもと関東を支配した。斯波家長の死後は上杉憲顕が執事をつとめ、常陸合戦に際して高師直の従兄弟高師冬が鎌倉に下され、憲顕とともに両管領と称されて義詮をたすけた。基氏が鎌倉に下向すると、高師直は常陸合戦の後上洛していた師冬をふたたび執事として鎌倉に下した。直義党として活動していた上杉憲顕に対抗するためである。中央での両派の抗争は関東でも大きな分裂を引き起こした。
 観応元年(一三五〇)十月、直義が巻き返しをはかって京都を出奔し、各地の直義党に師直・師泰誅伐を呼びかけると、関東でも十一月十二日上杉重能の猶子能憲が常陸信田荘に兵を起こし、十二月一日関東執事上杉憲顕が師冬にそなえて鎌倉を発し本拠地上野に帰った。師冬は憲顕討伐のため基氏を擁して鎌倉を発したが、相模国湯山(神奈川県厚木市)で直義党の石塔義房が基氏を奪い返し、基氏は憲顕とともに鎌倉へ帰還した。師冬は甲斐へ逃れたが翌観応二年(一三五一)正月十七日上杉憲将らに攻められ須沢城(山梨県白根町)で自害した。師冬の滅亡によって、鎌倉の主導権は直義党に握られることになった。京都でも二月十七日摂津打出浜の決戦で直義は尊氏に大勝し、講和折衝の結果師直・師泰を出家させることで和議が成立したが、その師直等高氏一族も、摂津武庫川で上杉能憲(憲顕の子、重能の養子)に襲撃され殺された。これによって直義はふたたび政務を管轄することになったのである。