この薬師寺の軍勢に加わった高麗経澄・助綱の軍忠状がある(資一―675・676)。それによれば、既に直義が京都を出奔した八月には高麗経澄らのもとにも義詮の御教書が下され、宇都宮・薬師寺との間で上杉憲顕誅伐の談合がなされていた。十二月十七日武蔵国鬼窪(埼玉県白岡町)に挙兵した経澄・助綱らは薬師寺氏に従って武蔵府中に向かい、十九日羽袮蔵(埼玉県浦和市)で難波田九郎三郎と合戦し、その夜阿須垣原(比定地未詳。阿佐ヶ谷か)で吉江新左衛門尉と合戦して、翌二十日には府中へ押し寄せ敵を追い散らし、その勢いで小沢城を焼き払った。『太平記』によれば直義も宇都宮等の軍勢に対して桃井直常等を差し向けており、武蔵守護代であった吉江中務も軍勢を集めていたという(巻第三〇)。阿須垣原に押し寄せた吉江新左衛門尉も武蔵守護代吉江中務の一族であろう。小沢城は現在の稲城市矢野口・川崎市多摩区菅仙石にその遺構を残しているが、ここは多摩川を挟んで府中をのぞむ直義党の前線基地であり、これを破られたことで勝敗の帰趨はほぼ決した。宇都宮・薬師寺の軍勢は府中・小沢城を撃破した後、足柄山を通って翌正月一日伊豆国府の尊氏軍に合流した。正月五日、ついに直義は伊豆国府にて尊氏と和睦し、ともに鎌倉に入った。直義はこの後二月二十六日鎌倉延福寺で没した。『太平記』等によればこれは毒殺であったという。四年間にわたる擾乱は直義の死で一応の幕を閉じた。武蔵守護には尊氏の執事であった仁木頼章が任じられ、鎌倉府では直義党の上杉憲顕は逃走し、その上野・越前守護職は取上げられた。しかし直義党はまだ各地に存在したのであり、特に中国・北九州では直義の養子直冬が反尊氏としてあなどりがたい勢力をもっていた。また擾乱の間、情況の変化に応じて相手の勢力に対抗するため直義・尊氏とも南朝に講和を申し入れたことから、これに乗じて勢力を挽回せんとする南朝の動きも活発化していた。
図5―49 高麗経澄軍忠状(町田文書)