第二次分裂

645 ~ 647
しかしこの情勢も長くは続かず、尊氏・直義両派の対立は日をおって深まり観応二年(一三五一)八月には直義が再び京都を出奔するという事態に至った。京都を出て直義党の勢力圏であった北陸に逃れた直義は、十一月十五日北陸道を通って鎌倉に入った。尊氏も直義追討のため東下し、十二月十一日直義軍と駿河由比・蒲原に戦い、ついで薩埵山(静岡県由良町)の戦いで直義軍を破った。同じ頃、尊氏の催促に応じて宇都宮・薬師寺公義らが武蔵の武士を糾合して上野から武蔵へ南下し、薩埵山の尊氏の陣に向かっていた。薬師寺公義は高師直の有力被官で、師直が武蔵守護・国司を兼帯していた時、その守護国司代をつとめていた(『園太暦』)。高氏滅亡後は上杉憲将が武蔵守護となっており、薬師寺公義にとってこの直義・尊氏の対決は勢力挽回の好機であった。
 この薬師寺の軍勢に加わった高麗経澄・助綱の軍忠状がある(資一―675・676)。それによれば、既に直義が京都を出奔した八月には高麗経澄らのもとにも義詮の御教書が下され、宇都宮・薬師寺との間で上杉憲顕誅伐の談合がなされていた。十二月十七日武蔵国鬼窪(埼玉県白岡町)に挙兵した経澄・助綱らは薬師寺氏に従って武蔵府中に向かい、十九日羽袮蔵(埼玉県浦和市)で難波田九郎三郎と合戦し、その夜阿須垣原(比定地未詳。阿佐ヶ谷か)で吉江新左衛門尉と合戦して、翌二十日には府中へ押し寄せ敵を追い散らし、その勢いで小沢城を焼き払った。『太平記』によれば直義も宇都宮等の軍勢に対して桃井直常等を差し向けており、武蔵守護代であった吉江中務も軍勢を集めていたという(巻第三〇)。阿須垣原に押し寄せた吉江新左衛門尉も武蔵守護代吉江中務の一族であろう。小沢城は現在の稲城市矢野口・川崎市多摩区菅仙石にその遺構を残しているが、ここは多摩川を挟んで府中をのぞむ直義党の前線基地であり、これを破られたことで勝敗の帰趨はほぼ決した。宇都宮・薬師寺の軍勢は府中・小沢城を撃破した後、足柄山を通って翌正月一日伊豆国府の尊氏軍に合流した。正月五日、ついに直義は伊豆国府にて尊氏と和睦し、ともに鎌倉に入った。直義はこの後二月二十六日鎌倉延福寺で没した。『太平記』等によればこれは毒殺であったという。四年間にわたる擾乱は直義の死で一応の幕を閉じた。武蔵守護には尊氏の執事であった仁木頼章が任じられ、鎌倉府では直義党の上杉憲顕は逃走し、その上野・越前守護職は取上げられた。しかし直義党はまだ各地に存在したのであり、特に中国・北九州では直義の養子直冬が反尊氏としてあなどりがたい勢力をもっていた。また擾乱の間、情況の変化に応じて相手の勢力に対抗するため直義・尊氏とも南朝に講和を申し入れたことから、これに乗じて勢力を挽回せんとする南朝の動きも活発化していた。

図5―49 高麗経澄軍忠状(町田文書)