武蔵野合戦

647 ~ 649
正平七年(一三五二)閏二月、南朝は東西呼応して京都・鎌倉に攻め入る作戦にでた。南朝の後村上天皇が賀名生(あのう)(奈良県五条市)から天王寺を経て八幡(京都府八幡市)に進出したころ、関東では宗良親王を奉じて新田義貞の子息新田義興・義宗らが上野に蜂起し、武蔵へ突入して鎌倉へ迫った。直義の死からわずか二十日ばかりで、ふたたび武蔵野を舞台として戦闘が繰り広げられることになったのである。この軍勢には先に中先代の乱で鎌倉を陥れその後敗走していた北条時行のほか、石塔義房・三浦高通、鎌倉府執事であった上杉憲顕らの旧直義党も加わっており、観応の擾乱に連続する尊氏方と旧直義党との争いでもあった。

図5―50 武蔵野合戦関係図

 閏二月十七日、新田等の軍勢が鎌倉に迫ると、尊氏は鎌倉を出て武州狩野川(横浜市神奈川区)にその鋭鋒を避け、十八日新田義宗らは鎌倉に攻め入ってこれを占領した。十九日、尊氏は狩野川から谷口(やのくち)(稲城市矢野口)に移動してここに陣し、一方新田義興は関戸(多摩市関戸)に陣した。観応の擾乱の際直義方として行動した水野致秋は、この日武蔵鶴見宿から関戸の義興の陣に馳せ参じている(資一―677)。二十日、両軍は金井原(小金井市)・人見原(府中市)で合戦に及んだ。『鶴岡社務記録』などではこの合戦で尊氏方が勝利したと記しているが、尊氏は義宗の軍勢に追われて石浜へ逃れている。石浜は隅田河畔、台東区旧石浜町清川・橋場付近に比定され、待乳山(まつちやま)聖天宮のある真土山が石浜城蹟であるといわれる。真土山は江戸時代から土採りされて原形は失われてしまっているが、「川の向の岸高くして、屏風を立てたるが如くなる」と『太平記』に記されたようなかなりの台地をなしていたという。石浜は『義経記』に、西国船が数千艘も着いた場所として描かれ、石浜の少し南にある今津には「問」という港湾業者の存在が知られ、年貢輸送の経由地ともなった水上交通の要衝であった。『太平記』によれば尊氏は「坂東道」を東に石浜まで敗走し、ここで態勢を建て直して武蔵国府へ引き返したといい(巻第三一)、石浜は水上交通の要衝であるばかりでなく、府中へ向かう東西陸上交通の玄関口でもあり、水陸交通の結節点であった(湯浅一九九五)。
 尊氏はこの石浜で態勢を建て直して武蔵府中に戻り、二十八日小手指原合戦に臨んだ。新田方の軍勢は、鎌倉に入った義興・北条時行らの軍勢と、新田義宗らの軍勢とに分断され、義宗らの軍勢は小手指原(所沢市)・入間河原(入間市)・高麗原(日高市)と後退していった。同じ日鎌倉でも武蔵国府から鎌倉に入った尊氏の将石塔義基と新田義興・三浦高通との間で合戦が行なわれている。鎌倉を占領した新田らも、結局鎌倉を持ち堪える事ができず鎌倉を放棄し、尊氏は三月十二日鎌倉に帰還した。
 この合戦での尊氏の動きは新田らの予想を反するものであった。『太平記』によれば、新田義興らは「新田の人々兵を挙げて上野国に起り、武蔵国へ打越ると聞えば、将軍は定めて鎌倉にてはよも待ち給わじ。関戸・入間川の辺に出合てぞ防ぎ給わんずらん。」と、尊氏が鎌倉街道上道を北上して関戸・入間川で防戦するものと予想していたのである(資一―678)。実際これまでは新田義貞の鎌倉攻めや中先代の乱でもここが鎌倉の防衛拠点となっていた。しかし過去の戦いではいずれも関戸を破られて鎌倉は陥落している。尊氏は早々に鎌倉を出奔し上道沿いでの決戦を避けたのである。これによって鎌倉へ入った新田勢は、尊氏を追って翻弄され、結局軍勢は分断されることになった。尊氏が利用した道は、神奈川から谷口(やのくち)の陣への道、そして府中から石浜への道である。この府中から石浜への道は、『太平記』では「坂東道」と記し、この石浜の陣では千葉氏胤・小山氏政・小田治久・宇都宮氏綱・大掾高幹・佐竹義篤・同師義ら関東の有力大名がかけつけたとある。石浜へ入ったことで尊氏は大軍を糾合しその後の展開を有利に進めることができたのである。この後義興は足柄郡河村城に拠ったが、三月十五日尊氏は畠山国清・三富元胤らをして攻めさせ、義興は信濃へ敗走した。
  湯浅治久「東京低地と江戸湾交通」『東京低地の中世を考える』一九九五年