義興の謀殺

649 ~ 651
武蔵野合戦の後、しばらく鎌倉にとどまり鎌倉府の建て直しをはかっていた足利尊氏は、文和二年(一三五三)七月二十八日鎌倉を発って上洛した。尊氏は上洛に先立って、依然上野や武蔵北部に潜伏していた新田氏の残党を警戒して、基氏を北関東から鎌倉に入る鎌倉街道上道の要衝の地、入間川(埼玉県狭山市)に在陣させることにした。尊氏上洛の前日七月二十七日、基氏は鎌倉を発ち、武蔵府中で平一揆烟田(かまた)氏らの着到(ちゃくとう)をうけ(烟田文書)、入間川に入った。基氏はこれ以後貞治元年(一三六二)まで九年間入間川に滞在し、「入間川殿」と称された。
 入間川の基氏は執事畠山国清の補佐のもと政務をとっていた。延文三年(一三五八)四月三十日尊氏が没すると、武蔵野合戦に破れた後しばらく越後に滞在していた新田義興が再起をはかって武蔵に入ったが、十月十日畠山国清によって多摩川の矢口の渡しで謀殺された。その顛末は『太平記』に詳細に記され、後に平賀源内の浄瑠璃『神霊矢口渡』によって有名になった。『太平記』によれば、武蔵野合戦の時新田義興に属しその後畠山国清の家来となっていた竹沢右京亮が、一族の江戸遠江守・同下野守とともに計略をめぐらし、畠山国清によって江戸遠江守が突然所領稲毛荘一二郷を没収されたことにして、稲毛荘に下って城郭を構え、竹沢を通じて義興を誘引した。謀略を知らずに矢口の渡しまで来た義興は、用意された船にのったが、その船は底を二か所くりぬいてのみが差してあり、さらに対岸では江戸遠江守・同下野守ら三百余騎が控えていた。船が多摩川の半ばにさしかかったとき、水手がのみを抜いて川に飛び込み、義興ははじめて謀略に気付いたが沈みかかる船上で怨みをのんで自害したという。

図5―51 新田大明神縁起絵巻

 ここで注目されるのは多摩川渡船場として矢口の渡しが知られることである。矢口の渡しの場所については、多摩郡矢野口(稲城市矢野口)に比定する説と、荏原郡矢口(大田区矢口)に比定する説がある。大田区矢口には新田神社が存在し、義興にまつわる伝説も多く残っているが、こうした伝説は『太平記』の記述から形成された可能性も高く、これを証拠とするにはさらに検証が必要である。『太平記』によれば江戸遠江守は稲毛荘十二郷を領していたとあるが、この後至徳元年(一三八四)、稲毛荘内渋口郷(神奈川県川崎市高津区子母口)を得て入部しようとした岩松国直の子息国経が江戸蔵人入道希全・同信濃入道道貞の抵抗にあって入部できないという事件が起きており(正木文書)、江戸氏が稲毛荘を獲得していたことは確かである。また応永十一年(一四〇四)には江戸遠江守の直系の子孫とみられる江戸蒲田四郎入道という人物が武蔵国六郷保(大田区)内大森・永富両所を押領したことがみえ(大慈恩寺文書)、江戸遠江守の一族が多摩川北岸の六郷保を根拠地としていたとみられることは、矢口の渡しの場所を考えるうえでも注目される(大田区一九八五・川崎市一九九三)。しかし一方の多摩郡矢野口についても、武蔵野合戦の際に足利尊氏が陣所とした谷口(やのくち)御陣があり、ここが鎌倉から神奈川を通って府中へ入る道の多摩川の主要な渡河点であったことが知られる。
  大田区史編さん委員会『大田区史』上巻、一九八五年

  川崎市『川崎市史』通史編1、一九九三年