儀海の活動

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多摩市域の寺院には、新義真言宗系の寺院が多く、『新編武蔵国風土記稿』によれば、市域の寺院一七か寺中一一か寺が新義真言宗の寺院である。その中でも八か寺が、現在日野市高幡に所在する高幡山金剛寺の末寺となっている。これにより、近世の多摩市域における宗教的世界に新義真言宗の影響が強かった事は明らかであるが、それは近世になって急に築き上げられたものではなく、その前史としての中世における経緯が少なからず影響していたに違いない。中世の多摩市域において史料上あるいは伝承上で存在が確認される寺院・堂は、関戸の観音堂(現在の慈眼山観音寺に比定)、貝取大貝戸の観音堂(現在は廃寺となり、本尊は乞田の吉祥院に保管)、寺方の吉祥山寿徳寺のみである。これらの寺院について中世における活動の記録は僅少であるため、まずは金剛寺の周辺からその姿を点描してみたい。
 金剛寺の開創は明らかではないが、応永二十二年(一四一五)の金剛寺不動堂勧進状(資一―724)によれば、大宝年間(七〇一~七〇四)以前の草創とある。しかし、鎌倉後期の中興開山儀海の時代まで金剛寺の事跡は明らかではない。
 金剛寺の中興の祖とされる儀海は、弘安二年(一二七九)の生れと考えられ、下野国薬師寺(栃木県南河内町)を始めとして常陸国真壁郡亀隈(茨城県真壁町)の成福寺、下野国小山(栃木県小山市)の金剛福寺などで研鑽を積んだ。その後、新義真言宗を確立した紀伊国根来寺の頼瑜や、その弟子である鎌倉大仏谷の頼縁のもとに数度赴き新義真言宗の教えを受けた。儀海が金剛寺の別当になった時期は明らかではないが、嘉元四年(一三〇六)から正和五年(一三一六)の間、多摩郡船木田荘由井郷・河口郷(八王子市)を中心に聖教(しょうぎょう)の書写活動が確認され、元亨四年(一三二四)以降はほぼ金剛寺(高幡不動堂)において書写活動を行なっている。儀海が金剛寺別当として確認できるのは、康永元年(一三四二)六月二十八日、金剛寺の不動堂や不動明王像が修造された時である。
 以降、金剛寺は多摩川中流域において虚空蔵院儀海方あるいは武蔵方と呼ばれる新義真言宗の教線を展開させるのであるが、その背景には金沢称名寺(神奈川県横浜市)を軸とした北条氏一族の金沢氏と船木田荘由井郷の地頭天野氏の関係が指摘されている(細谷一九八九)。
 儀海が興した新義真言宗の一派武蔵方の教学センターとなった金剛寺は、各地からの学僧を受入れて法流を伝えて行くのであるが、特に愛知県名古屋市の真福寺に残された聖教類にその跡を見る事が出来る。真福寺は能信により尾張国中島郡大須(岐阜県羽島市)に開かれた新義真言宗の寺院で、慶長十七年(一六一二)に現在地に移された。この真福寺開山能信以下の真福寺寺僧等により書写された奥書から儀海の活動も窺えるのである(黒板一九三六)。
  細谷勘資「儀海の布教活動と中世多摩地方」『八王子の歴史と文化』一、一九八九年

  黒板勝美『真福寺善本目録』続輯一九三六年