金剛寺と多摩川中流域

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寺院一般は、寺院や僧侶のみでその世界を完結するものではなく、彼等の行なう法会や教養などを必要とする社会や個人がいて初めて存立する。これは、金剛寺においても同様であろう。地域社会における寺院の機能の全てを中世の金剛寺から見出す事は出来ないが、限られた史料の中から金剛寺と地域社会のつながりを見て行く事にしよう。
 地方寺院の経済基盤は、檀那(だんな)と呼ばれる信者によって保障される事が多く、中世においては所在する地域の在地領主が多く檀那となっている。金剛寺の場合はどうだったのであろうか。恐らく、鎌倉時代前半においては在庁官人系の日奉氏がその役を担っていたのであろうが、金剛寺周辺に高麗氏が入部してからは高麗氏が金剛寺の檀那になっていた。それが明らかになる事例が康永元年(一三四二)に完了した不動堂・不動明王像の修造である。建武二年(一三三五)八月四日、金剛寺は大木が倒れてしまうほどの大風にあって堂舎を壊滅させてしまう。これを暦応二年(一三三九)より大檀那平(高麗)助綱夫妻らがスポンサーとなり修復を始め、康永元年六月二十八日に完了したものである(資一―673・674)。これにより高麗氏が金剛寺の檀那になっていた事がわかる。また、時代は下るが永禄十年(一五六七)十月十八日の高幡不動座敷次第写(資一―802)には高麗氏同名中が正月十三日に金剛寺内で行なう行事の座席配置が記されている。これも高麗氏と金剛寺の強い関係を示すものであろう。
 ただし、康永元年の不動堂・不動明王像修造の際に資財を金剛寺に提供したのは高麗助綱夫妻のみではない。高幡不動胎内文書には、金剛寺の寺僧が青柳三郎と考えられる人物に不動の新造の費用負担を依頼しており(高五二)、土淵郷の領主山内経之も「御てら(寺)をもみまいらせたく相存候しに」(高二二)と、金剛寺の状況を気にかけている。青柳三郎の素性は明らかではないが、青柳という地名は現在多摩川左岸の国立市に属しているが、中世においては多摩市関戸・一ノ宮の北隣に所在しており、「青柳根元録」(国立市一九八九)によれば万治二年(一六五九)七月二日の多摩川氾濫により村が移動したという伝承がある。また、「あらいとの」も金剛寺の有力な庇護者として見えている(高二二)。このように、金剛寺周辺の領主たちが金剛寺の不動堂修造に結集しているのである。
 ここで、不動明王像の像内に納入されていた高幡不動胎内文書の成立が問題になる。従来①山内経之供養説、②一般結縁供養説、③呪符説の三説が挙げられている(日野市一九九四)。高幡不動胎内文書の宛所は、常陸合戦に従軍していた山内経之の留守宅、金剛寺の寺僧「しやうしん」、関戸観音堂の坊主、青柳三郎などが上げられ、ひとつにまとめる事は出来ないが、書状が出された時期は暦応年間前後に考えられよう。これら宛所がばらばらの書状をまとめて不動明王像の像内に納入するには何かの契機が考えられなくてはならない。現在判明している状況の中で最も妥当だと考えられるのは、不動明王像の修復が成り開眼供養などの法会がなされる時であろう。この時、金剛寺寺僧あるいは大檀那高麗助綱の呼びかけにより、修造事業に関わりが深かった人物の書状が集められ、印仏が捺されて像内に納入されたのではないだろうか。印仏を捺したのもこの供養に結縁を望んで集まった人々が捺したもので、当初短冊状に切断されたが、書状を切り刻むのはしのびないという理由から、途中でそのままにされたのではないだろうか。このように考えると、金剛寺側は一般に結縁を勧め、結縁を望んで書状を携えた人々や印仏を捺した人々は個別の宗教的機縁で集まったとも考えられる。右の三説を整理すれば、寺院側の指向は②一般結縁供養説で、結縁を望んで集まってきた人々のうち山内経之の遺族は①山内経之供養説で整理できる。以上は筆者の私見であるが、何れにしても決定打がないのが現状である。

図5―52 山内経之書状(『高幡不動胎内文書』)

 ところで、金剛寺の有力な庇護者であった高麗助綱は、高幡不動胎内文書に見られる「たかはた殿」に推定されているが(日野市一九九三・一九九四)、推定の根拠を明確に示されていないので、ここで考察してみよう。
 第一に参考になるのが貞治四年(一三六五)四月二十五日付けの平重光打渡状(資一―693)である。この文書は、平重光が三田蔵人大夫とともに「武蔵国高幡郷」を「高麗三郎左衛門尉跡」に受け渡した事を証明する文書である。高麗三郎左衛門尉は、正平七年(一三五二)正月日の高麗助綱軍忠状写にみえる「高麗三郎左衛門尉助綱」と同一人物である事がわかる。その上で、高幡郷の領主であった高麗助綱が「たかはた殿」と呼ばれたと考えられる。第二に高幡不動胎内文書中に「たかはた殿、あらいとのゝ御かたへも申たく存候」(高二)とあり、高幡殿が新井殿より上位者ではないかと考えられる点である。
 しかし、第一の事例が主要因であるとすると「あらいとの(新井殿)」も高麗助綱比定の候補にあげられる。永禄十年(一五六七)十月十八日の高幡不動座敷次第写(資一―802)には、筆頭に記されている「高麗山城守」が「あらいの村」に居館があった事がわかる。この「新井」という地名は、現在の日野市新井に相当すると思われるが、得恒郷と土淵郷南部をしめす広域地名としても使用されており(資一―803)、その地名で呼ばれている新井殿も高麗助綱に比定する候補となろう。しかも、先に見たように高幡不動座敷次第写には高麗氏同名中の筆頭に挙げられており、十六世紀における新井氏の位置付けがわかる。このほかにも新井氏説の論拠として、新井殿が高幡不動の有力な庇護者であった事(高二二)、不動堂修造が着工された暦応二年(一三三九)と同じ年に始まった常陸合戦に「たかはた殿」が従軍していたらしい事が挙げられる。また、同じく常陸合戦に従軍していた土淵郷の山内経之が、留守宅の後見を「あらいとの(新井殿)」に求めるなど、多摩川中流域の有力者として位置付ける事が出来る新井殿が常陸合戦に従軍していない事も窺われる。新井殿は、高師冬の厳しい軍勢催促に対して本人が従軍せずとも代官なりを派遣できるような地位、即ち高幡高麗氏の惣領的な存在ではなかっただろうか。しかし、高麗助綱をめぐる高幡氏説も新井氏説も確実な根拠がある状況ではないので、さらなる研究が望まれるところである。

図5―53 金剛寺不動堂(『江戸名所図会』)

 以上述べたごとく十四世紀ごろには金剛寺の教線は、周辺の在地領主層の間では確実に広まっていたとすることができよう。
  国立市史編さん委員会編『国立市史』中、一九八九年

  日野市史編さん委員会編『日野市史史料集 高幡不動胎内文書編』一九九三年

  日野市史編さん委員会編『日野市史』通史編二(上)、一九九四年

※文中、資料の引用などで(高○○)とあるのは、『日野市史史料集 高幡不動胎内文書編』の文書番号である。