武蔵国で最も著名な談義所は、仙波談義所即ち現在の喜多院(埼玉県川越市)である。多摩郡においては、二か所の談義所を確認する事が出来る。次にその史料を掲げる。
①『法華玄義抄』巻一題下
元徳三年十月(中略)於武州府中定光寺談所始之、
②『法華玄義抄』巻七題下
文保三年(中略)武州府中定光寺、
③『止観私見聞』巻六奥書
貞和四年五月(中略)於武州府中定光寺談所口筆畢、幸尊之、
④『法華文句抄』巻十初
正平七年閏二月廿八日 武州定光談所始之、
⑤『法華文句抄』巻二奥書
観応二年六月(中略)於武州由末〔木〕山蓮生寺談所 始之、
史料①~④は多摩郡府中定光寺、史料⑤は多摩郡蓮生寺に関するものである。
府中定光寺談所は、深沢靖幸氏によれば府中市矢崎町一丁目に所在する臨済宗大徳寺派菩提山常光寺の前身とする。常光寺は東京競馬場建設のため一九三〇年二月に現在地に移転しており、元の所在地は競馬場の西端にあたる。定光寺は、寺地からほりだされた経筒銘(資一―567)により有名であるが、この経筒は現在失われており、その銘文は『武蔵名勝図会』多摩郡府中領常光寺の項によって知られ、定光寺の存在が仁安二年(一一六七)に確認される(深沢一九九二)。
蓮生寺談所は、八王子市別所に所在する曹洞宗由木山蓮生寺に比定される。この寺院は、『吾妻鏡』養和二年(一一八二)四月二十日条によれば、平治元年(一一五九)十二月の平治の乱の後、円浄房が京都より武蔵国に来て草創したもので、この時に源頼朝が寺田を寄進している(資一―581)。寺伝によれば、往古は天台宗で天正の頃に恵鑑により中興されたという。恐らく、この中興の時点で曹洞宗になったものであろう。近年、多摩ニュータウンの開発により、周辺から十二世紀中葉から十四世紀前半の遺物や、僧房あるいは仏堂的建物群と考えられる遺構が出土している。
図5―54 蓮生寺(『武蔵名勝図会』多摩郡之部巻6)
この定光寺や蓮生寺は、天台宗の談義所として金剛寺と同じように教学センターとして中世多摩川中流域における宗教世界の中核を構成していたのであろう。
深沢靖幸「府中定光寺とその周辺」『府中市郷土の森紀要』五、一九九二年