足利尊氏によって東国支配の要として置かれた鎌倉府は、初期のころには内乱という状況に対応して軍事的側面が強く、その権限は軍勢催促などの軍事指揮権に限定されたものであった。観応の擾乱後しばらく鎌倉にとどまっていた将軍足利尊氏が文和二年(一三五三)上洛し、鎌倉公方足利基氏の時代になると、知行宛行や所領相論に関する訴訟の裁許など鎌倉府の行使する権限は飛躍的に拡大し、鎌倉府は関東十か国を管轄する地方行政機関として確立する。鎌倉府の主帥は基氏の代より鎌倉公方あるいは鎌倉御所と称されるようになり、基氏のあとは氏満―満兼―持氏と基氏の子孫に継承された。時代がくだるにしたがって鎌倉府の権限は強大化していった。鎌倉府が管国内で行使した権限は、裁判権、警察権、軍勢催促・感状授与・恩賞宛行、所領宛行・没収・闕所地処分、公田段銭・棟別銭などの諸役賦課・免除権、関東諸職への任命、官途推挙、社寺の監督など広範に及んだ(渡辺一九二六)。こうした権限の拡大によって鎌倉府は室町幕府からの独立性をつよめ、次第に鎌倉公方と室町将軍との間に不和が形成されていくことになる。鎌倉公方を補佐して政務を管轄する関東管領(初期は執事(しつじ)といった)は、畠山国清失脚の後、貞治二年(一三六三)公方基氏の懇請により武蔵野合戦後北国に引きこもっていた上杉憲顕が呼び戻されて就任し、以後上杉氏の独占するところとなった。憲顕の管領就任・越後守護還補に反発した前越後守護宇都宮氏の反抗、足利氏満の公方就任直後応安元年(一三六八)の平一揆の反乱を経て、鎌倉府は公方足利氏と管領上杉氏を中心とした集権的な支配体制を確立し、以後上杉禅秀の乱が勃発する応永二十三年(一四一六)までの約五〇年間は、小山氏の反乱など伝統的領主層の反乱はあったものの、一応安定した支配が行なわれた。
関東管領は憲顕のあと能憲とともに朝房が登用され、以後は憲方の流れの山内家と、朝宗の流れの犬懸(いぬがけ)家が交替でつとめた。鎌倉府の管国は、相模・武蔵・上野・下野・常陸・安房・上総・下総と甲斐・伊豆の一〇か国で、明徳三年(一三九二)以降奥羽二州が加えられた。このうち伊豆・上総・武蔵・上野の軍事上重要な国々には上杉氏が配置され、武蔵は時の管領が守護をつとめたが、山内家は上野・伊豆、犬懸家は上総の守護職を持ち、それぞれの国の国人層を組織して領国支配をすすめていった。この両上杉氏はやがて管領の地位をめぐって競合し対立を深めていく。
図5―55 上杉氏系図
公方足利氏のまわりには直臣団として奉公衆(ほうこうしゅう)が組織され、その最上層は評定衆として管領上杉氏とともに評定に参加し、訴訟受理や審理に関与して鎌倉府の政治の中枢を担った。公方の政治的・軍事的基盤となった奉公衆は、初期のころには足利氏一門や足利氏根本被官が中心であったが、氏満のころより関東各地の国人層が次々と奉公衆に編成されて勢力を拡大していった(山田一九九五)。
このような公方・奉公衆、管領上杉氏の両勢力によって担われた鎌倉府政権の経済的基盤となったのが、関東各地に置かれた直轄領である。鎌倉期以来の足利氏所領、および北条氏旧領を中心として、鎌倉府は交通路・関・港湾など主要な流通拠点を把握し支配下に置いた。直轄領として把握された郡・荘内部の郷は、奉公衆や、鎌倉府をその宗教的権威によって支えていた鎌倉の寺院などに配分された。
渡辺世祐『関東中心足利時代之研究』一九二六年
山田邦明『鎌倉府と関東―中世の政治秩序と在地社会』一九九五年