しかし応永二年(一三九五)上杉朝宗が関東管領に就任し、犬懸上杉氏が武蔵守護職をもつことになった。応永五年(一三九八)鎌倉公方を嗣いだ満兼は幼時より朝宗に育てられ朝宗を重用し、朝宗は応永十二年(一四〇五)に辞職するまで一〇年にわたり管領の職にあった。その間、千坂越後守・長尾兵庫入道(藤景)・埴谷備前入道など犬懸上杉氏の重臣が武蔵守護代として、現地で所領の打渡(うちわた)しや、六所宮造営段銭の免除(資一―709)など守護朝宗の命令を執行している。埴谷備前入道は犬懸上杉氏が守護職をもっていた上総国山武郡の在地武士で、犬懸上杉氏の有力被官である。
朝宗の関東管領辞任後、その跡には山内上杉憲定が任じられ、応永十八年(一四一一)憲定が病気のため辞任すると、朝宗の子息犬懸上杉氏憲(褝秀)が関東管領に任じられた。武蔵の守護職も山内家と犬懸家が交替でつとめることとなり、それぞれ守護の職権をもって在地の武士等の掌握につとめたものと思われる。国内の在地領主等は、守護の被官となり、あるいは奉公衆として公方と結び付き、あるいは近隣の領主と一揆を結んで上部権力に対して自立性を確保し、所領の保全をはかっていった。応永二十四年(一四一七)上杉禅秀の乱後は山内上杉氏が武蔵守護となり上杉憲基・憲実のもとで、長尾芳伝・大石遠江入道道守・憲重が守護代をつとめ、守護の諸権限を駆使しての国人層の組織化が進められていった。
守護 | 在任期間 | 守護代 |
一色範氏 | ||
高重茂 | ~建武四(一三三七)・四~貞和二(一三四六)・九~ | |
高師直 | ~観応元(一三五〇)・八~観応二(一三五一)・二 | 薬師寺公義 |
上杉憲顕 | 観応二(一三五一)・二~観応二(一三五一)・一二 | 上杉憲将 |
仁木頼章 | 正平六(一三五一)・一二~文和元(一三五二)・一二~ | 吉江中務 |
畠山国清 | ~延文二(一三五七)・一二~康安元(一三六一)・一二 | |
高師有 | ~康安二(一三六二)・五~ | 高坂兵部大輔 |
上杉憲顕 | 貞治二(一三六三)・三~応安元(一三六八)・九没 | 上杉能顕 |
上杉能憲 | 応安元(一三六八)・九~永和四(一三七八)・四没 | 大石隼人祐能憲 |
上杉憲春 | 永和四(一三七八)・四~康暦元(一三七九)・三没 | 長尾入道景守 |
大石遠江太郎 | ||
埴谷備前入道 | ||
(山内)上杉憲定 | 応永一二(一四〇五)・一〇~応永一八(一四一一)・正 | |
(犬懸)上杉氏憲 | 応永一八(一四一一)・二~応永二二(一四一五)・五 | 長尾氏春 |
応永二四(一四一七)・五~応永二六(一四一八)・正没 | 長尾忠政(芳伝) | |
大石石見守憲重 | ||
上杉清方 | 永享一一(一四三九)・六~嘉吉元(一四四一)・一二~ | 長尾景仲 |
上杉憲忠 | 嘉吉三(一四四三)・三~享徳三(一四五四)・一二没 | |
上杉房顕 | 享徳三(一四五四)・一二~文正元(一四六六)・二没 | 長尾景棟 |
上杉顕定 | 文正元(一四六六)・二~文明一三(一四八一)・三~ |
杉山博「南北朝時代の武蔵国司と守護」『府中市史史料集』十二、一九六六年
田辺久子「南北朝期の武蔵国に関する一考察」『金沢文庫研究』一八―九、一九七二年