武蔵守護代大石氏

664 ~ 667
大石氏は山内上杉氏の有力被官として代々武蔵守護代をつとめ、多摩郡内に本拠をおいて戦国期に至るまで国人領主として活動した。『新編武蔵国風土記稿』に所載されて早くから知られていた「大石系図」によれば、大石氏は木曽義仲の子孫を称し、中興の祖とされる信重は正慶三年(一三三四)に生まれ、貞和年中(一三四五~五〇)はじめて鎌倉管領家(上杉憲顕)に給仕し、武州比企郡津下郷に三〇〇貫文をたまわり、延文元年(一三五六)五月十一日武蔵国入間・多摩両郡内に一三郷をたまわって武蔵国目代の職に補任され、同年八月二宮(あきる野市)に移り居住したという。しかしこの系図については大石氏の発給・受給文書の検討から、欠落や誤りがあることが指摘されている(岩崎一九八九・湯山一九九三)。
 武蔵守護代大石氏の史料上の初見は大石隼人佑能重である。能重は公方足利氏満御教書および関東管領上杉能憲施行状を受けて応安三年(一三七〇)十月三日武蔵国比企郡竹沢郷竹沢左近将監入道跡を藤田覚能に打渡し(円覚寺文書)、翌応安四年には建長寺塔頭正統庵領久良岐郡鶴見郷新市における濫妨狼藉を禁ずる禁制を発給している(塚本文書)。それ以後は伊豆・上野で守護代としての活動が見られる。能重は平一揆の乱後の武蔵支配を任され、武蔵守護上杉能憲の一字をもらっていることから、山内上杉氏の有力被官であったと考えられる。その後康暦元年(一三七九)武蔵守護代として大石遠江入道が見られる(円覚寺文書)。その遠江入道は永徳二年(一三八二)十二月鎌倉円覚寺に寄進された大般若経から法名を聖顕といったことが知られ(円覚寺蔵大般若経刊記、貫一九六二)、至徳元年(一三八四)七月には武蔵守護代として橘樹郡稲毛新庄渋口郷の打渡しができないことを鎌倉府に報告し(正木文書)、この後至徳三年(一三八六)まで武蔵守護代としての活動が見られている(鑁阿寺文書)。聖顕の後には明徳二年(一三九一)十二月上杉憲方より武蔵国六郷保大森郷の沙汰付けを命じられた大石遠江太郎が見られ、禅秀の乱の後には再び武蔵守護となった山内上杉氏(憲基)のもとで守護代をつとめている大石遠江入道道守が見られる。遠江太郎は道守の入道前の通称かと思われる。道守は応永三十四年(一四二七)五月まで武蔵守護代としての活動が見られ(資一―724)、大石氏の菩提寺入間郡永源寺(埼玉県所沢市)の過去帳によれば正長元年(一四二八)八月二十八日に没した。「大石系図」では信重の法名を「直山道守」としているが、系図に見える信重の活動期間には聖顕・道守の二代があり、このいずれが信重と名のったかはわからない。
 正長元年(一四二八)以降武蔵守護代をつとめたのは大石憲重(隼人佑・石見守)である。『私案抄(しあんしょう)』所載の正長二年四月二十日武蔵惣社大般若経施入の発願文によれば、「当国目代石見守源憲重」が武蔵惣社六所宮の大般若経筆写に合力したことが知られ、武蔵守護代としての活動は永享六年(一四三四)まで見られる(雲頂庵文書)。「大石系図」では憲重の法名を春山道伯とし、正長二年二月十五日に没したとしている。『私案抄』には正長二年二月二十一日二宮道伯(石公道伯)の初七日忌の諷誦、七七日忌の諷誦が所載されており、道伯が二月十五日に没したことは明らかであるが、この道伯を憲重とするのは系図の誤りである。憲重が隼人佑として活動する以前、応永十三年(一四〇六)八月から同十七年に下野守護代として活動している大石隼人佑(応永十五年には石見守と名乗り替えをしている)がおり(鶏足寺文書・鑁阿寺文書)、おそらくこれが正長二年に没した道伯であり、憲重は道伯の没した直後に石見守と名乗り替えていることから道伯の子息であったと思われる。

図5―56 「大石系図」

 以上「大石系図」から離れてその他の史料から大石氏の系譜を見ると、武蔵守護代をつとめた大石氏には隼人佑・石見守を名乗った能重―道伯―憲重の系統と、遠江守を名乗った聖顕―道守の系統があったことがわかる。遠江守系は道守が応永二十九年(一四二二)永源寺に梵鐘を寄進し(『新編武蔵国風土記稿』)、ここを菩提寺としたように入間郡に本拠をもち、一方の石見守系は道伯が二宮を名乗っているように多摩郡二宮(あきる野市)に本拠をもったものと考えられる。系図ではこの二系統の事跡が道守=信重、道伯=憲重として凝縮されたのであろう。道守・道伯が活動した時期は、上杉禅秀の乱後、関東管領上杉憲実が武蔵・上野などの領国支配を進め国人層を組織化しようとしていた時期にあたる。大石氏はこの道守・道伯の代に入間郡や多摩郡に拠点をもって活動し基盤を固めて行ったものと思われる。
  岩崎学「武蔵守護代大石氏に関する二、三の考察」『史学研究集録』一四、一九八九年

  貫達人「円覚寺蔵大般若経刊記に就いて」『金沢文庫研究』八―二、一九六二年

  湯山学「山内上杉氏の守護代大石氏再考」『多摩のあゆみ』七三、一九九三年