南北朝期以降になると、武士団のありかたも大きく変化した。武蔵七党などの血縁で結ばれた党的武士団にかわって出現してきたのが一揆(いっき)である。『太平記』によれば武蔵野合戦の時、赤印一揆・鍬形一揆・母衣一揆・平一揆・白旗一揆・花一揆などさまざまな一揆が登場する。平一揆は「小手ノ袋・四幅袴笠符(かさじるし)ニ至ルマデ一色ニ皆赤カリケレバ、耀テゾ見ヘタリケル」、白旗一揆は「白葦毛・白瓦毛・白佐馬・鴾毛ナル馬ニ乗テ、練貫ノ笠符ニ白旗ヲ差タリケルガ、敵ニモ白旗有ト聞キテ俄ニ短クゾ切タリケル」と描かれたように、合戦では共通の旗じるしをもって一揆構成員であることを表示した。この平一揆と白旗一揆は他の史料からもその存在が確認され、平一揆は、河越・江戸・高坂・豊島・土屋・土肥・鹿島・古尾谷など武蔵・相模の平姓秩父氏を中心として族縁・地縁などをもって結集した集団であった。白旗一揆は別府・沼田・発智・高山・高麗・塩谷・久下など上野・武蔵の広範な武士がその構成員となっていた。このように軍事的集団として守護からの軍勢催促に応じ統一的な軍事行動をとった一揆は、その結成の契機として上部権力による編成という側面があったことが指摘されている。また一面では一揆は合戦に際して、その成員が互いの戦功を確認し保証する体制として機能し、在地の所領支配にあたっては一揆成員間での紛争を平和的に解決し、個々の当知行を維持保全する体制として機能した。
内乱が続き政治権力が分裂するなかで、在地の領主層は所領支配を維持していくために近隣の領主とのネットワークを日常的に築いていたのである。こうした領主間ネットワークの一端を多西郡土淵郷領主山内経之ののこした書状のなかに垣間見ることができる。山内経之は近隣の領主新井氏に対して、「あらいとの(新井殿)ゝ事ハ、はんし(万事)たの(頼)もしき事」と大きな信頼を寄せ、「したち(下地)の事ハ、いくたひ(幾度)もあらいとの(新井殿)にまか(任)せお(置)かせ給へく候」などと出陣中の下地の支配について協力関係を築いていたのであり、また所領妨害などの事件については、高幡氏・新井氏・青柳氏など近隣の領主と連携をもってこれに対処する関係を築いていた。こうした関係を基礎として一揆が形成されていたのである。