年号 | 建武4・延元2(1337)12、2 | 延文3・正平13(1358)12、5 | 貞治5・正平21(1366)4、3 | 嘉慶元(1287)12、18 | 応永8(1401)6 | 応永14(1407)5、22 | 寛正3(1462)12、13 |
史料 | 666号足利尊氏御判御教書写(萩藩閥閲録遺漏2―3)天野顕氏の所領安堵 | 682号足利義詮御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕氏の所領安堵 | 694号足利義詮御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕忠の所領安堵 | 704号足利義満御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕房の所領安堵 | 707号天野顕忠譲状(天野毛利文書)天野顕房に譲与 | 710号足利義持御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕勝の所領安堵 | 760号天野家氏譲状(天野毛利文書)天野弘氏に譲与 |
多摩郡内の所領 | (武蔵国吉富) | ||||||
武蔵国由井本郷大畑村 | 武蔵国両所 | 武蔵国由井本郷 | 武蔵国由井本郷 | 武蔵国由井本郷大畑村三分方 | 武蔵国由井本郷 | 武蔵国由井本郷大畑村三分方 | |
(武蔵国船木田新荘内横河村) | |||||||
(武蔵国由比本郷田畠在家) | |||||||
ところでこれらの算用状で注目されることは、「貞治二年納分」のうち「始めて知行の分」について「廿五貫七百文、守護の権威を以て納むるの間、廿貫文これを契約す」とあることである。即ち守護の力によって収納が行なわれているのである。また、延文六年下行分(徴収した年貢のなかから、諸経費として支給される分)のなかに「二貫文 守護方これを遣わす」とあり、貞治元年下行分には「三貫文 守護沙汰料足」「二貫文 守護代酒手」、貞治二年下行分には「二貫文 守護使二人引物」とある。至徳二年下行分には「五貫文 管領進物」「五貫文 守護代方一献料」「弐貫文 大石大井[炊]介方一献料」「弐貫文 芝宇弾正方一献料」等々が記されている。これらの史料により、荘園の年貢収納は守護や国人層の力によらねばならなくなっていたことが知られるとともに、守護や国人達に収納した年貢のなかからしかるべきものを礼銭として差出さればならなくなっていたようである(福田一九八三、一九八五)。
十五世紀も後半に入ると、在地においては守護代や国人層の動きは一段と活発化し、荘園は衰退の途をたどっていった。東福寺領船木田荘は延徳二年(一四九〇)東福寺領諸荘園目録には「武蔵国 船木田荘」の荘名をみることが出来るが、これを最後に船木田荘は東福寺文書からもその姿を消していった。
福田榮次郎「武蔵国船木田荘の研究」『日本古代史論苑』一九八三年
福田榮次郎「武蔵国船木田荘の在地動向をめぐって」『郷土たま』四、一九八五年