船木田荘と天野氏と東福寺

668 ~ 670
武蔵国船木田荘における天野氏の所領は、南北朝・室町期になると史料の上からは、まず由比郷内横河・由比本郷田畠在家源三郎作が姿を消していく。その後は由井郷内大畑村のみが存続し、表5―5のように天野顕氏から顕忠に、顕忠から顕房へ、顕房から顕勝へと相伝されている。寛正三年(一四六二)天野家氏譲状(嫡子弘氏へ譲与)があるが、これには由井本郷大畑村が、遠江国と誤記されている。すでに本拠を安芸に移していた天野氏は由井本郷の実質的支配を失っていたので、このような書き違いをしたのではなかろうか。この譲状を最後として天野氏の船木田荘関係の史料はみられなくなる。その船木田荘は南北朝期に本荘も新荘も東福寺に寄進され、東福寺領船木田荘が成立した。東福寺領となってからの船木田荘については、『東福寺文書』に貞治二年(一三六三)年貢算用状(年貢の収支決算報告書)・至徳二年(一三八五)年貢算用状等があり、荘園内の様相が知られるようになる。貞治二年算用状は延文六年分・貞治元年分・貞治二年分の三か年分が記入されているが、そのいずれにも「五百文 由比野村」がみられ、貞治二年分のうち「始めて知行の分」と記すなかには「一貫五百文 横河郷」がみえている。また、至徳二年算用状には船木田荘が新荘と本荘にわけて記載されているが、新荘のところに「参貫五百文 由比郷分」とある。これらはいずれも天野氏のかかわっていたところである。
表5―5 南北朝・室町期の天野氏所領(武蔵国多摩郡内)一覧
年号 建武4・延元2(1337)12、2 延文3・正平13(1358)12、5 貞治5・正平21(1366)4、3 嘉慶元(1287)12、18 応永8(1401)6 応永14(1407)5、22 寛正3(1462)12、13
史料 666号足利尊氏御判御教書写(萩藩閥閲録遺漏2―3)天野顕氏の所領安堵 682号足利義詮御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕氏の所領安堵 694号足利義詮御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕忠の所領安堵 704号足利義満御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕房の所領安堵 707号天野顕忠譲状(天野毛利文書)天野顕房に譲与 710号足利義持御判御教書写(譜録 右田毛利)天野顕勝の所領安堵 760号天野家氏譲状(天野毛利文書)天野弘氏に譲与
多摩郡内の所領 (武蔵国吉富)
武蔵国由井本郷大畑村 武蔵国両所 武蔵国由井本郷 武蔵国由井本郷 武蔵国由井本郷大畑村三分方 武蔵国由井本郷 武蔵国由井本郷大畑村三分方
(武蔵国船木田新荘内横河村)
(武蔵国由比本郷田畠在家)
註 666号等とあるのは、『多摩市史』資料編一所収の文書番号である。666号の( )内の所領は姿を消したものである。

 ところでこれらの算用状で注目されることは、「貞治二年納分」のうち「始めて知行の分」について「廿五貫七百文、守護の権威を以て納むるの間、廿貫文これを契約す」とあることである。即ち守護の力によって収納が行なわれているのである。また、延文六年下行分(徴収した年貢のなかから、諸経費として支給される分)のなかに「二貫文 守護方これを遣わす」とあり、貞治元年下行分には「三貫文 守護沙汰料足」「二貫文 守護代酒手」、貞治二年下行分には「二貫文 守護使二人引物」とある。至徳二年下行分には「五貫文 管領進物」「五貫文 守護代方一献料」「弐貫文 大石大井[炊]介方一献料」「弐貫文 芝宇弾正方一献料」等々が記されている。これらの史料により、荘園の年貢収納は守護や国人層の力によらねばならなくなっていたことが知られるとともに、守護や国人達に収納した年貢のなかからしかるべきものを礼銭として差出さればならなくなっていたようである(福田一九八三、一九八五)。
 十五世紀も後半に入ると、在地においては守護代や国人層の動きは一段と活発化し、荘園は衰退の途をたどっていった。東福寺領船木田荘は延徳二年(一四九〇)東福寺領諸荘園目録には「武蔵国 船木田荘」の荘名をみることが出来るが、これを最後に船木田荘は東福寺文書からもその姿を消していった。
  福田榮次郎「武蔵国船木田荘の研究」『日本古代史論苑』一九八三年

  福田榮次郎「武蔵国船木田荘の在地動向をめぐって」『郷土たま』四、一九八五年