小山田保

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小山田荘は小山田保(ほ)とも呼ばれ、永禄二年(一五五九)北条氏所領役帳によれば、小山田荘内の郷村として成瀬・小川・高ヶ坂・森・木曽・山崎・町田・直ヶ谷・真光寺・黒川・鶴間・金森・大谷・金井・広袴・木倉・小野路等が見えている(資一―797・798)。この範囲は現在の多摩市南部から町田市のほぼ全域、川崎市麻生区、相模原市、大和市北部にわたっている。平安時代末期から鎌倉時代初頭には平姓秩父氏族小山田別当有重・子息重成がいたが、重成滅亡後は武蔵国務を掌握していた北条氏の支配下にあったものと思われる。南北朝期以降は北条氏旧領を引き継いだ鎌倉府の直轄領となり、内部の郷村は鎌倉公方と関係の深い人物や鎌倉寺院、上杉氏などによって支配された。上杉氏庶流には小山田を名乗り小山田保内を本拠とした一族があったことも知られている(町田市一九八四)。小山田保内には鎌倉街道が通り、小野路の小野神社には応永十年(一四〇三)「朝夕扣撃し、それ往来の人をして、晩宿早発の時を知らしむ」ために梵鐘が奉納されており、小野路が当時宿として機能していたことが窺える(資一―708)。鎌倉府はこうした交通路を直轄領あるいは準直轄領(上杉氏領や鎌倉寺院領)として押えており、鎌倉から武蔵府中にいたる街道沿いの山内荘・小山田保・吉富郷はみな鎌倉府によって掌握されていた。

図5―57 多摩川中流域の荘郷

 小山田保内真光寺(しんこうじ)(町田市真光寺町)は延元三年(一三三八)足利尊氏・直義の母上杉清子の所領として見え、清子より某上人へ与えられている(資一―667)。当時真光寺という寺院が存在したことは、嘉慶二年(一三八八)の真光寺堂舎修造の勧進状によっても知られるが、この時にはかなり荒廃していたようである(資一―706)。その後真光寺は、永享の乱以前には足利氏直臣の渋垂(しぶたれ)氏の所領となっていた。長享三年(一四八九)渋垂小四郎は、永享の乱で足利持氏にくみして没収された所領の返付を古河公方足利高基に求めたが、その所領のなかに「小山田保鶴間郷内小河村ならびに心広寺田畠在家」が見えており、この「心広寺」は真光寺かと思われる(資一―769)。しかし渋垂氏の所領回復は容易ではなかったようで永正二年(一五〇五)にもほぼ同文の申状が出されている(資一―775)。なお享徳二十六年(一四七七)の鎌倉報国寺の寺領目録には「小山田保下矢部郷・真光寺」が見えており下矢部郷(町田市矢部町)とともに真光寺は報国寺に寄進されていた(資一―765)。
 小山田保内黒河郷(神奈川県川崎市麻生区)半分は貞治三年(一三六四)鎌倉公方足利基氏より御仁々局という女性に与えられた(資一―690)。この後御仁々局は黒河郷半分を鎌倉円覚寺黄梅院に寄進し、鎌倉公方足利氏満がこれを安堵している(資一―696・697)。この御仁々局とは恐らく鎌倉公方と親しい関係にある女性であろう。また黒河郷とともに小山田保内山崎郷(町田市山崎)も黄梅院領となっている(資一―699)。黄梅院は応永十一年(一四〇四)には山崎郷・黒河郷半分に対する武蔵国総社六所宮造営段銭の免除を申請しこれを認められているが(資一―709)、その後黒河郷は見られなくなり、山崎郷は長禄元年(一四五七)の黄梅院当知行地注文に「山崎郷四ヶ村」と見えているが(資一―736)、宝徳二年(一四五〇)には一〇か年におよび長夫役拒否が続いており、うち続く動乱のなかで所領支配の実質は失われつつあった。黄梅院文書のなかに山崎郷が見られるのは長禄三年(一四五九)が最後である。
  町田市史編纂委員会『町田市史』上巻、一九八四年