稲城市から川崎市多摩区菅、麻生区金程・細山一帯の小沢郷は、南北朝期には摂津氏の所領となっていた。摂津氏は法曹官僚中原氏の子孫で鎌倉幕府で評定衆をつとめた有力氏族である。暦応四年(一三四一)八月七日、摂津親秀は嫡孫能直以下一六人に所領を譲与した。能直舎弟松王丸に譲与した所領のなかに武蔵国小沢郷が見えている(資一―672)。鎌倉時代初頭、小沢郷は稲毛重成の所領であり、重成滅亡後には稲毛重成の外孫にあたる綾小路師季息女(二歳)が北条政子の猶子とされて、重成遺領小沢郷を拝領した(資一―611)。この後この娘は京都の土御門通行に嫁いでいる。小沢郷がいつ、どのような経緯で摂津氏の所領となったかは不明であるが、鎌倉時代から摂津氏の所領となっていたようである。摂津親秀は譲状に「もし子無くして早世することあらば、惣領能直これを知行すべし」と書き置いたが、松王丸は早世したものか、小沢郷は能直の系統に伝領された。応永二十四年(一四一七)、能直の孫にあたる満親は、これ以前に南禅寺に寄進していた小沢郷・小机(こづくえ)(神奈川県横浜市神奈川区・港北区)にかえて、加賀国倉月荘(石川県金沢市)内の所領を南禅寺襃勝軒に寄進した(資一―718)。この前年には禅秀の乱が起っており、小沢郷・小机は「多年諸事の煩い」があって不知行となっていたようである。この後小沢郷は満親子息で室町幕府の官途奉行などをつとめた之親に譲与された(資一―734)。また長享二年(一四八八)には摂津親秀が開いた京都西芳寺の所領目録のなかに武蔵国小沢郷金程村が見えている(資一―768)。しかし京都にいる摂津氏にとって遠隔地所領の経営は困難であり、久しく不知行であった小沢郷は年貢の数さえわからなくなっていた。現地で小沢郷の支配をしていたのが誰であったかはわからないが、多摩川を挟んで府中にのぞむ要害の地であったこの地も鎌倉府の掌握下にあった可能性は高い。