得恒郷は高幡郷とも呼ばれ、高幡金剛寺のある高幡を中心として現在の日野市南平・三沢を含む地域に比定されている。鎌倉時代中期以降得恒郷には武蔵国高麗郡を本拠とする高麗(こま)氏の一族が勢力を張っていた。高麗助綱は康永元年(一三四二)大檀那として高幡金剛寺不動堂および本尊不動明王像を修復するなど、高幡金剛寺の庇護者として大きな勢力をもっていた。
高幡高麗氏の南北朝・室町期における活動は、「高幡高麗文書」などから窺うことができる。高麗助綱は観応の擾乱に際して、本宗家の高麗経澄とともに尊氏方の前武蔵守護代薬師寺公義に属して戦功を挙げた(資一―675)。しかしその後の情勢の転回のなかで助綱は一時所領を没収されていたようである。貞治四年(一三六五)武蔵国高幡郷(得恒郷)が「高麗三郎左衛門尉跡」に打ち渡されており(実相院及東寺宝菩提院文書)、助綱子息が高幡郷をふたたび回復している。助綱の子息と思われる高麗師員は、康暦二年(一三八〇)下野守護小山義政の反乱に鎌倉公方足利氏満の催促に応じて下野各地を転戦した。応永二十四年(一四一七)十二月高麗範員が記した申状の土代(どだい)(下書き)によれば、範員は南白旗一揆に属していたことが知られ、前年に勃発した上杉禅秀の乱での忠節により武蔵国多西郡内の沽却地を恩賞として賜りたいと要請している。南白旗一揆は南一揆とも称され、褝秀の乱では鎌倉公方持氏方に寝返ってその勝利に貢献した。ここで恩賞として請求している沽却地が多西郡のどこにあり、またこれが実現したかはわからないが、すでに沽却してしまった土地を「徳政の御裁許」として「還補」(取り戻し)を求めていることは興味深い。
応永二十一年(一四一四)には得恒郷に一宮で行なわれる般若会の大頭役銭が賦課されていたことが知られ、この内の一〇貫文を忠家という人物が借用している(資一―713)。この貸主は高幡高麗氏であると思われる。また永享六年(一四三四)には一宮等の造営段銭として一国平均に段別一〇疋(一〇〇文)が賦課され、高麗越前守・同主計助が得恒郷内のそれぞれの知行分の田数に応じて段銭を納入し、返抄を得ている(資一―727)。高幡越前守は知行分田数一町七段大四〇歩(二八〇歩)、主計助は九段小(一二〇歩)であり、それぞれ一貫七七八文、九三三文を納めたことになる。
この後高幡高麗氏は永禄十年(一五六七)高幡不動堂座敷次第(資一―802)に見られるように、戦国時代には新井村・豊田村・三沢村・堀之内村・河内村・田之口村・程久保谷など得恒郷・土淵郷一帯に展開した。