土淵郷

674 ~ 675
多摩川と浅川に挟まれた日野・下田・新井・石田・万願寺(日野市)の地域は中世には土淵郷に属していた。鎌倉時代には日奉氏一族に土淵郷を本拠とする西・田村・土淵などの諸氏があった。同じく日奉氏一族で多摩川北岸の立河郷に本拠をもつ立河氏は、土淵郷内の田地・在家、土淵上村を土渕氏・猿渡氏より買得して集積し、室町時代の応永二十四年(一四一七)には上杉禅秀の乱の恩賞として「土渕郷田畑・在家・河原等」を還補され(立河文書)、その後も所領を保持した。『家伝史料』所収の多摩郡新井方絵図(資一―803)にも土淵郷内とみられる「谷之村」付近に「たちかはかた」と記されている。しかし日奉氏一族はこの立河氏のほかは、鎌倉幕府滅亡とともに没落したとみられ、その後南北朝期には相模の山内首藤氏の一族とみられる山内経之が入部する。経之の所領は「ほんがう(本郷)」「かみがう(上郷)」にあり、ほかに「おほくほ(大久保)」「やつ(谷)」も含まれたとみられる。本郷は日野本郷(現在の日野市日野本町)に比定される。日野本郷は中世では土淵本郷と称されたと推定されており、日ノ宮権現社(日野宮神社)や土渕山普門寺・薬王院などの寺院があり、国衙在庁官人日奉氏の本拠があったと考えられている地である。また上郷は、立河文書元徳元年(一三二九)正月関東下知状に見られる「土渕上村」に比定されている。大久保・谷は日野市日野の小字名にあり、多摩郡新井方絵図(資一―803)にも「谷之村」と見えている。山内経之は高幡殿、新井殿、青柳三郎殿など近隣の在地領主たちとの連帯関係を形成していた。土淵郷内に含まれたと考えられる新井(日野市新井)を名乗る新井殿は経之がもっとも信頼を寄せていた人物である。多摩郡新井方絵図によれば浅川の北岸に「新井之屋敷」があって、ここに新井氏の本拠があったと考えられる。青柳は一ノ宮と関戸の北側に境を接する村であったが、万治二年(一六五九)の多摩川の洪水によって府中四谷村に移転し、その後現在の国立市青柳に移ったという。この地が土淵郷に含まれたかはわからないが、その位置から見て吉富郷に含まれたのではないかと推定される(釈迦堂一九九六)。
  釈迦堂光浩「像内納入文書―「高幡不動胎内文書」と中世の多摩川中流域」『歴史手帖』二四―六、一九九六年