深大寺以外の周辺寺院に関する文章は、ひとつを除き勧進状で構成されている。長弁は、宗派にこだわらず広く作文の依頼に応えている。小山田荘真光寺(町田市、廃寺)・府中勝宝寺(府中市、廃寺)・六郷保栄福寺(品川区、廃寺)・稲毛荘栄興寺(川崎市、現在の影向寺)・高幡不動堂(日野市、現在の金剛寺)からは堂舎の修造勧進のために、長尾山威光寺(川崎市、現在の長尾山妙楽寺)からは梵鐘鋳造の勧進のために、国分寺(国分寺市)からは仏像造立勧進と法華経施入のために作文を依頼されている。このように寺院の修造にあたっては、広く資縁を得るために勧進状が作成され、勧進僧が布施を募って地域住民からの助成を得ていたのである。
日野市高幡の金剛寺には、現在も長弁自筆と考えられる応永二十二年(一四一五)二月付の勧進状が残されている(資一―714)。この不動堂修造事業の中心となった勧進僧乗海は、文安二年(一四四五)にも別当等海とともに鰐口を奉納しており(資一―633)、十五世紀前半に金剛寺の復興活動が確認される。この勧進状の文中には、金剛寺が関東鎮護・戦勝祈願に効験があることが述べられており、長弁もそのことを認識していたのであろう。また、金剛寺が鎌倉公方足利満兼(勝光院殿)の寺領寄進を受けていた事も特筆されよう。
府中勝宝寺は、その跡地さえ明らかではないが、『私案抄』によれば寛喜二年(一二三〇)の創建で、「自往古、為国司奉免寄附、雖有微薄小田」とある事から、この時の武蔵守北条泰時あるいは、在庁官人等の帰依を得ていたのであろう。