『私案抄』にみる民衆信仰

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『私案抄』には、現在でも民間で行なわれている追善供養に関する文章も載せられている。そこには、初七回忌・三十五日(五七日)忌・四十九日(七七日)忌・百日忌・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌の忌日供養が行われていた。これらの供養には、ほとんどの事例で法華経の書写・卒都婆(そとば)の造立が伴われていた。たとえば応永三十二年(一四二五)閏六月十日の「良寿丸百日忌諷誦文」では、「仏に帰し法に廻して、百ケ日の忌陰にいたる。ここにより、卒都婆一本を彫刻したてまつり、頓写・漸写の法華経廿七部、対夜の廿五三昧、称名念仏数千返、教禅和合の衆僧を屈して、開題演説の一会を賁る。」とあり、正長二年(一四二九)二月の「井田妙珍三十三回忌諷誦文」では、「ここに先妣の幽霊妙珍禅尼三十三回の忌陰を迎えて、大日如来の三摩耶形浄戒柱一基、虚空蔵一躯を造立したてまつり、妙法蓮花経一部を頓写したてまつり、妙典四部・阿弥陀経一巻・血盆経三巻・尊勝陀羅尼三返を繕写し、教禅和合の僧侶を屈して、頓漸の経王を写し、種々の善根を営んで如々の覚位を祈る。」とある。
 法華経は、天台宗における教学の中心をなす重要な経典で、日本では人間の穢や罪を滅ぼす呪力があると信じられていた。それを法則に従い書写する事は、如法経(にょほうきょう)と呼ばれ、平安時代後期以降中世の日本では広く行なわれていた。ちなみに、頓写とは一日で経典などを書写する事で、漸写とは数日かけて少しずつ経典を書写する事である。『私案抄』の中の法華経においては、「法華経十三部経供養」が特筆される。この史料中の十三部経供養は、法華経一三部を書写し、一本・三本あるいは一三本の卒都婆を造立し、追善供養や逆修供養など種々の供養に供するものである。なお「逆修」とは、生者が死後の冥福を祈る事である。主として関東地方以北に分布する十三塚との関連も考えられる。
 また、注目されるのは卒都婆の造立である。『私案抄』の中の表現では、卒都婆のほかに塔婆・五輪塔婆・延命柱・浄戒柱などと記されている。現在、一般に卒都婆をイメージすると頂部が五輪塔の形に成形された板卒都婆を思い浮べるが、中世では角塔婆や板石塔婆が一般的であったと考えられ、中世の関東においては板碑(いたび)(板石塔婆・青石塔婆)が膨大に造立され現在も数多くの遺物が残されている。『私案抄』における供養には、何れかの卒都婆が造立されたものであろう。また、「大日如来の三摩耶形浄戒柱一基」や「虚空蔵一躯」とある卒都婆については、「三摩耶形(三昧耶形)」の意味が仏・菩薩を象徴するものとあるので、先の例に即していえば、大日如来の種子「〓(ア)」や虚空蔵菩薩の種子「〓(タラーク)」を刻んだ卒都婆であったのであろう。多摩市内においても、断片を含んで四〇〇基以上の板碑が確認されており、各地で同じような法会が行なわれていたと推測される。

図5―59 『私案抄』関係地図

 長弁は、橋の造立に際しても供養文を起草している。橋の造立は一般民衆の生活に利便を与えるだけではなく、善徳を積む作善事業としても認識されていたようで、その理由からも、勧進僧が中心となって僧俗の奉加を募り橋を造立したり、橋の竣工にあたっては橋供養を行なっていたのであろう。