十四世紀以降の武蔵国一宮については、あまり史料が残されていないが、最近発見された彦根城博物館所蔵「井伊家史料」中の「高幡高麗文書」に武蔵国一宮関係史料が二通含まれている。
ひとつ目は、応永二十一年(一四一四)十二月二十五日の忠家借券写である(資一―713)。この史料からは、武蔵国一宮で般若会という法会が行なわれていた事、その「大頭」役が得恒郷に賦課されており、その額が一〇貫文であった事がわかる。恐らく、大頭役(頭役)は、毎年一宮周辺の郷毎に順番で割り当てられていたのか、あるいは各郷が均等に負担していたのであろう。これらの事柄から、武蔵国一宮が多摩川中流域の在地領主層結集のひとつの核になっていた事は疑いあるまい。
図5―61 忠家借券写
「高幡高麗文書」彦根市彦根城博物館蔵(資一―713)
ところで、『私案抄』には同じ時期に武蔵国惣社六所宮において般若会が行なわれており、この項でも史料を引用した。一宮の費用調達にかかる忠家借券写が、十二月二十五日の日付である事から、一宮の般若会が六所宮の般若会と同じ正月に行なわれていた事が推測される。ただし、先に引用した『私案抄』「武蔵惣社般若会願文」には、摂社として「一宮」が記載されており、同じく『私案抄』「武蔵惣社大般若経施入発願文」には六所宮の説明に続いて一宮のみその本地仏文殊菩薩の効験が記されていて、双方とも二宮以下の諸社が省かれている。これらの事からすれば、あるいは十四・十五世紀段階の六所宮と一宮は一体化していたのかもしれない。そうであれば、忠家借券写にみえる一宮般若会と武蔵惣社般若会は同一の行事であったのかもしれないが、現状では判断できないので、さらなる研究が望まれる。この際、嘉慶二年の武蔵惣社般若会の大頭役「藤原光忠」と忠家借券を発給した「忠家」に共通する「忠」の文字にも留意したい。
二つ目は、永享六年(一四三四)十二月五日の某連署返抄写である(資一―727)。この史料は、武蔵国守護でもある関東管領上杉憲実の奉行人と考えられる人物が、某宮と一宮造営料として武蔵国内平均に一段あたり一〇疋(=百文)の賦課を得恒郷の高麗越前守・高麗主計助に懸けた時のものである。この臨時課税が、実際に某宮と一宮の造営に充てられたかどうかは定かではないが、武蔵国守護たる上杉憲実が、武蔵国一宮の造営を主導する事により一宮などに結集する在地領主層を把握しようとしていた事が窺われる。
図5―62 某連署返抄写
『高幡高麗文書』彦根市彦根城博物館蔵(資一―727)
菊池山哉「分倍河原の古戦場に就て」『府中市史史料集』一一、一九六六年