臨済宗夢想派の僧侶義堂周信(ぎどうしゅうしん)が記した日記の抄出である『空華日用工夫略集』の応安七年(一三七四)三月二十日条(資一―698)には、義堂周信のもとに「関戸保寿寺」の比丘尼長老性覚が来訪し、死後の追善のため保善寺とその田地を義堂周信に託したとの記載がある。この「関戸保寿寺」の詳細は明らかではないが、鎌倉時代の「北条貞時十三忌供養記」には、保寿寺の寺僧七名が供養に奉仕した事がわかる。また義堂周信のもとに訪れた性覚は、尼僧であったので「関戸保寿寺」は尼寺であった事がわかる。しかし、現在の多摩市内やその周辺では保寿寺という寺院は確認できず、保寿寺の所在地は謎というほかない。