宇都宮氏の反抗

685 ~ 686
鎌倉公方足利氏と管領上杉氏を中心とした関東の集権的な支配体制は、宇都宮・小山・小田など関東の伝統的領主層を抑圧し、その権益を奪っていくことで確立していった。宇都宮氏もそうした鎌倉府体制の確立の過程で叛乱を起こしその権益を奪われていったひとりである。
 康暦元年(一三七九)十一月三十日、鎌倉府の御料所であった吉富郷内の「宇都宮弾正少弼入道女子跡」が鶴岡八幡宮別当坊に預け置かれた(資一―700)。この史料から、吉富郷がこれ以前に宇都宮弾正少弼入道の所領となっていたことが知られる。宇都宮弾正少弼入道とは、宇都宮氏綱とともに観応の擾乱に尊氏方として活躍した氏綱の叔父高貞に比定されている。擾乱後、氏綱は上杉憲顕の守護国であった越後・上野の守護を得ており、高貞が吉富郷を得たのもこの時であったかもしれない。ところが貞治二年(一三六三)鎌倉公方基氏が上杉憲顕の関東管領就任を懇望し、憲顕を越後の守護に還補したことから、宇都宮氏はこれに反発し、鎌倉に向かう憲顕を上野国板鼻に襲撃しようとした。公方基氏は自ら軍勢を率いて鎌倉を発し、宇都宮氏綱のもとで越後守護代をつとめていた芳賀禅可および禅可の養子となっていた高貞らと武蔵国比企郡苦林野・岩殿山に戦って破り、宇都宮氏を降伏させた。さらに応安元年(一三六八)宇都宮氏は、関東管領上杉憲顕の上洛の隙をついて、武蔵平一揆河越氏らと通じて蜂起した。氏満は自ら軍勢を率いて閏六月河越城を落とし、ついで上杉の軍勢が宇都宮氏の拠点を次々と攻撃し、九月ついに宇都宮氏の本拠宇都宮城を攻めて降伏させた。この一連の反乱によって吉富郷も没収され鎌倉府御料所となったものと思われる。この後宇都宮氏との私闘に端を発して小山氏が鎌倉府に背いて没落し、下野守護職と武蔵太田荘を没収され、さらに常陸小田氏も攻められて信太荘などを没収された。
 応永二十三年(一四一六)に勃発した上杉褝秀の乱は、山内上杉氏と犬懸上杉氏による関東管領の地位をめぐる勢力争いをその一因としているが、鎌倉府体制下で抑圧され成長の道を閉ざされていた東国の大名層が犬懸上杉氏と結んで起こしたクーデターという一面をもっている。褝秀方についた人々は実に広範囲にわたったが、鎌倉府によって登用され恩顧をもっていた佐竹・結城を除き東国の大名層の多くは褝秀の反乱にくみしたのである。