上杉褝秀は応永十八年(一四一一)山内上杉憲定の辞任後、関東管領に就任した。応永二十二年(一四一五)褝秀が越幡六郎の所領没収問題をめぐって公方持氏と対立し関東管領を辞任すると、持氏はその後任に褝秀のライバル山内上杉憲基を据えた。これに対する反感から褝秀は、前公方足利氏満の子で持氏嗣立のはじめから陰謀の噂のあった足利満隆(持氏叔父)を誘い、将軍義持と不和にあった義嗣(義持弟)と通じて、縁故の人々や持氏に不満をもった人々に蜂起を呼びかけていった。
応永二十三年(一四一六)十月、上杉褝秀は鎌倉に蜂起し、公方持氏と管領憲基を襲撃した。不意打ちをくらった公方持氏・憲基は褝秀方の軍勢に敗れて小田原に敗走し、持氏は駿河に、憲基は越後に逃れた。緒戦に勝って褝秀らは鎌倉を掌握することに成功し、満隆は公方を称した。しかし十二月、幕府が満隆らの京都反抗を恐れて持氏支援を決定すると、形勢は逆転した。幕府の命をうけて駿河の今川範政、越後の上杉房方、信濃の小笠原政康らが関東に進撃し、憲基も十二月十五日越後を発して十九日上野に入り、武蔵に進んだ。当初褝秀方についていた江戸・豊島・二階堂・武州南一揆らが相次いで離反し、禅秀は足利持仲(満隆養子)・上杉憲方(禅秀子息)らを武蔵へ発向させるが、十二月二十一日瀬谷原(神奈川県横浜市瀬谷区)の合戦で敗れて持仲・憲方等は鎌倉に逃れた。上杉憲基は明けて正月二日に庁鼻和(埼玉県深谷市)に着陣し、寝返った武州北白旗一揆の別府氏らを糾合して四日村岡の陣(熊谷市)、五日高坂の陣(東松山市)、六日入間川の陣(狭山市)と鎌倉街道上道を南下し、八日久米川の陣(東村山市)に入った(資一―717)。その間満隆・禅秀らは武蔵に発向し、正月五日に再び瀬谷原で南一揆・豊島・江戸らと戦いこれに勝ったものの、今川範政らの鎌倉殺到を聞いて九日急ぎ鎌倉に退却し、十日追討軍に包囲されて雪ノ下別当坊(神奈川県鎌倉市)で一族四二人、従者五七人とともに自殺した。
上杉憲基は、正月九日に関戸の陣(多摩市)に入り、十日飯田の陣(神奈川県横浜市)を通って十一日鎌倉へ入った(資一―717)。持氏も十七日鎌倉に入った。禅秀の乱は勃発から三か月余で終わり、乱後ただちに論功行賞と禅秀与党の討伐が行なわれた。