公方持氏が鎌倉に帰還した直後の応永二十四年(一四一七)正月二十日、武州南一揆の成員であると考えられる立河雅楽助は武蔵国多西郡土淵郷田畠・在家・河原等を還補された(立河文書)。これは禅秀の乱の恩賞としては最も早いものである。この文書には「還補」とあるように、立河雅楽助はこれ以前に没収されたか、あるいは何らかの理由で敵方所領となっていたところを取り戻す事ができたのである。北白旗一揆に属した安保宗繁も同年三月十日に常陸国下妻荘小嶋郷を還補されている(安保文書)。
また南白旗一揆(南一揆)の成員であった高麗範員は、同年十二月、多西郡内沽却地を禅秀の乱の恩賞として賜りたいとの申状を作成した(高幡高麗文書、以下読み下し)。
目安 南白旗一揆
高麗雅楽助範員申す
右武蔵国多西郡内沽却地の事。御感状ならびに(御下文)右に備う。御法に任せて、彼の所々の券を以て、今度の忠節、恩賞御判を下し給わり、いよいよ忠懃を致さんがため、恐々言上くだんの如し。
応永廿四年十二月 日
右武州多西郡内沽却地等の事。一揆の調色に任せて、御裁許(徳政)に預かるべき旨なり。しからば還補の御判を下し賜り、いよいよ弓箭の勇を成さんがため、恐々言上くだんの如し。
高麗雅楽助範員申す
右武蔵国多西郡内沽却地の事。御感状ならびに(御下文)右に備う。御法に任せて、彼の所々の券を以て、今度の忠節、恩賞御判を下し給わり、いよいよ忠懃を致さんがため、恐々言上くだんの如し。
応永廿四年十二月 日
右武州多西郡内沽却地等の事。一揆の調色に任せて、御裁許(徳政)に預かるべき旨なり。しからば還補の御判を下し賜り、いよいよ弓箭の勇を成さんがため、恐々言上くだんの如し。
ここで注目されるのは高麗範員が「御法」に基づいて、すでに沽却してしまった地の返還を申請していることである。これは後の文章ではより詳しく、「徳政の御裁許」によって「還補の御判」をたまわりたいといっている。これは申状の土代(下書き)で、果してこれが実現したかは解らない。しかし立河雅楽助・安保宗繁の事例からも窺えるように、公方持氏方に寝返った一揆の面々のなかには、こうして「還補」という形で恩賞を賜り、所領を回復した者も少なからずいたものと思われる。
さらに武州南一揆は、応永二十四年(一四一七)十二月二十六日、公方持氏より勲功の賞として、以後五年間にわたる政所方公事を免除された(三島神社文書)。政所方公事とは鎌倉府の御料所(直轄領)を管理した政所の公事であると考えられ、南一揆の分布する武蔵南部に鎌倉府の御料所が多く存在していたことと対応している。
その後応永二十五年(一四一八)から翌二十六年には公方持氏の命を受けて、禅秀与党の新田・岩松、恩田美作守・肥前守らの討伐や、禅秀与党の蜂起に備えての国内警固などに動員されている(三島神社文書)。