武州南一揆の構成員

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右記の文書をはじめ、武州一揆に関する多くの文書が、あきる野市戸倉の三島神社および五日市阿伎留神社に所蔵されていることから、秋川流域が武州南一揆のひとつの拠点であったことが知られる。応永二十六年(一四一九)八月九日中浦顕宗という人物から、小宮の岩崎神十郎・網野弥五郎へ、公方持氏の御教書を受けて急ぎ府中・関戸まで出陣するよう指示がだされている(資一―720)。『新編武蔵国風土記稿』によれば小宮は秋川流域と秋川と多摩川合流点の東南部一帯を含む五九か村にわたる広域地名である。この文書から岩崎・網野氏および中浦氏は南一揆の成員で、中浦氏はこの地域における南一揆の指導的立場にあったのではないかと考えられる。

図5―63 武州南一揆関係図

 また南一揆の成員、あるいは南一揆に深く関係していたと考えられている人物に平山三河入道と梶原美作守がいる。応永二十六年、平山三河入道が当国の諸公事は五か年間免除されたといって、東福寺領船木田荘の領家年貢を対捍している、との訴えが東福寺雑掌より出された(資一―719)。また応永三十四年(一四二七)にも同様の訴えが出されており、平山三河入道・梶原美作守・南一揆の輩が船木田荘の年貢を抑留しているという(資一―724)。平山・梶原・南一揆が年貢抑留の根拠としたのは、先年禅秀の乱の恩賞として、政所方公事を五か年間免除されたことであった。これを拡大解釈して船木田荘の年貢押領をはかったのである。これによって船木田荘内も南一揆の基盤とする地域であったことが知られるが、平山三河入道・梶原美作守が南一揆の成員であったか否かについては見解の別れるところである。平山三河入道は船木田荘内平山郷(日野市平山)を本拠とした武士であると考えられ、梶原美作守は梶原八幡神社のある八王子市元八王子町梶原がその本拠地であったと考えられる。梶原美作守は鎌倉公方足利持氏の奉公衆となっており、禅秀の乱後には鎌倉公方足利持氏が御所修理のために梶原美作守の屋形に滞在しているなど(鎌倉大草紙)、鎌倉にも屋形を持ち活動していたことが窺える。この平山・梶原は船木田荘内に本拠を持ち、南一揆とともに年貢押領をはかってはいるものの、鎌倉府の体制からは国人ないし奉公衆として、一揆とは区別されて把握されていた存在であったと考えられる。

図5―64 梶原八幡神社棟札
(『新編武蔵国風土記稿』)

 この他武州南一揆の成員として知られるのは、得恒郷に本拠をもつ高幡高麗氏、多摩川下流の橘樹郡太田渋子郷に本拠をもつ佐々木氏とその周辺の武士である。応永二十四年(一四一六)十二月、南白旗一揆の高麗範員が、多西郡内の沽却地を禅秀の乱の恩賞として申請した申状の土代(下書き)がある(高幡高麗文書)。この武州南白旗一揆とは、十四世紀後半観応の擾乱頃に見られる武蔵・上野の武上らによる白旗一揆に系譜をもち、白旗一揆が上州一揆・武州北白旗一揆・武州南白旗一揆へと、一国あるいは数郡規模の地縁的な一揆として編成替えされ、この武州南白旗一揆が武州南一揆と略称されたものとみられている(峰岸一九六四・一九九四)。高幡高麗氏は得恒郷を中心として、船木田荘内木切沢村なども所領としており、武州南一揆の成員として考えてよいであろう。また応永二十七年(一四二〇)七月二日佐々木吉童子(持高)の訴えによって出された室町幕府奉行人奉書案(佐々木文書)の宛所には「当国布白旗一揆御中」とあるが、これについては「当国南白旗一揆御中」と読むべきであるとの指摘がなされている(佐脇一九九〇)。太田渋子郷は多摩川下流域の川崎市宮前区平・長尾・土橋、多摩区長尾の地域に比定されており、宮前区の神木(しぼく)は渋子の訛化したものという(中西一九八九)。南白旗一揆は幕府より佐々木吉童子の太田渋子郷領家職下地の知行の保全を命じられており、佐々木氏を含む周辺の武士らが南白旗一揆の成員であったものと考えられる。このような所領支配を保全する地縁的な結合を基礎として、武蔵南部の多摩川流域の広い地域にわたる中小武士等は、武州南一揆という軍事的集団を形成していたのである。
  峰岸純夫「上州一揆と上杉氏守護領国体制」『歴史学研究』二八四、一九六四年、のち『中世の東国―地域と権力―』所収

  峰岸純夫「室町時代の動乱と多摩地域」『日野市史』通史編二(上)第二章三節、一九九四年

  中西望介「太田渋子郷と佐々木文書」『川崎市文化財調査集録』二四、一九八九年

  佐脇栄智「武蔵国太田渋子郷雑考」『日本歴史』五〇五、一九九〇年