永享の乱と鎌倉府の崩壊

692 ~ 693
上杉禅秀の乱は、武州南一揆等の寝返りにより鎌倉府方の勝利に帰した。しかし、禅秀与党の残党は各地で抵抗を続けており、応永二十四年(一四一七)三月には、岩松満純が挙兵するなど不安定な状況が続いていた。鎌倉公方足利持氏は、これらを殲滅(せんめつ)するために苛烈な掃討戦(そうとうせん)を演じた。その中で、南武蔵の有力な国人一揆であった武州南一揆にも動員を命じている。応永二十六年(一四一九)八月九日、武州南一揆の中心的メンバーであった中浦顕宗は、恩田美作守・同肥前守等の追討を持氏に命じられ、一揆の構成員である多摩郡小宮の岩崎神十郎と網野弥五郎に対して府中・関戸までの出兵を命じている(資一―720)。
 持氏は、禅秀与党の追討を関東各地に拡大し、幕府とのつながりが強かった京都扶持衆(ふちしゅう)の山入与義・小栗満重・宇都宮持綱等を攻め、これを滅ぼしている。この一件は、従来からくすぶっていた幕府対鎌倉府の対立関係に油を注いだ形になった。これに加えて奥州における幕府方に近い稲村公方足利満貞と鎌倉府方に近い篠川公方足利満直との対立が絡みあい、対立は一層深刻になっていた。この様な状況の中、穏便な政策を主張していた関東管領上杉憲実は、永享八年(一四三六)信濃国に出兵しようとした持氏に対してこれを諫め、出兵を延期する事となった。しかし、翌永享九年四月に再び信濃出兵の計画がもちあがる。この時、この出兵は憲実追討のためであると風聞が流れ、持氏と憲実の関係が険悪になって行く。次いで、永享十年六月、持氏の長子賢王丸の元服の際に恒例であった将軍の諱を賜るべきであると主張したため、再び憲実追討の風聞が流れた。そして、ついに八月十四日に憲実は、本拠の上野国白井城(群馬県子持村)に退いた。これにより永享の乱と呼ばれる内戦の幕が切って落とされた。
 この上杉憲実の行動に激怒した持氏は、すぐさま一色直兼・同時家を進発させ、持氏自身も十六日に鎌倉を出発して、府中高安寺(府中市)に陣を進めた。憲実側は幕府に救援を求め、幕府もこれを受入れて持氏追討の綸旨(りんじ)を得た上で、関東に兵を進めた。二方面に戦線を分断された持氏は劣勢に立たされ、九月二十九日には、府中高安寺の陣を引き払い、「関戸山」を越えて相模国高座郡海老名道場(神奈川県海老名市)に陣を移した(資一―728)。しばらく上野国にとどまっていた憲実は、十月四日に軍勢を引き連れて武蔵国に向った。十九日に多摩郡分倍(府中市)に到着した憲実軍には、持氏を見限った軍勢が帰参し、持氏の敗北は明らかになった(資一―729)。上杉憲実の家宰長尾芳伝(忠政)は、十一月一日に鎌倉警固のため分倍を発ったが、途中の相模国葛原(神奈川県藤沢市)で形勢の不利を悟り鎌倉に向っていた持氏と参会した(資一―730)。持氏は、芳伝の説得により鎌倉永安寺に謹慎する事になった。勝利を得た憲実は、持氏父子の助命を幕府に願い出たが許されず、永享十年二月持氏は足利満貞とともに自害した。これにより鎌倉公方の関東支配は、事実上終焉を迎えた。

図5―65 高安寺山門(府中市)