鎌倉府の再建

694 ~ 695
上杉禅秀の乱から結城合戦に至るまでの戦乱は、専制権力を強化しようとする京都の将軍と関東を独立国化しようとする鎌倉公方の政治的対立が主軸をなしていたが、水面下では、東国守護の領国化や国人一揆がそれぞれの利害で行動できる力を備えてきている背景があった。
 各地の守護や国人一揆が地域権力を強化していく状況にあって、足利持氏の遺児成氏は、信濃国の親鎌倉公方派の武士等に擁立され、復権運動を進めていた。成氏は、上野国へ軍事的示威運動を行なう一方、京都では管領畠山持国の支持を得て政治的にも復権運動を進めていた。そして足利成氏は、文安四年(一四四七)三月幕府から正式に鎌倉公方の復活を認められたのである。成氏は、同年七月に山内上杉憲実の子憲忠を関東管領に補任し、八月二十七日に鎌倉に入った。この時、成氏は一四歳、憲忠は一五歳という幼い指導者をトップに戴いた政権であった。
 新たな体制で復活した鎌倉府は、実質的には旧来の鎌倉公方近親や北関東の伝統的豪族層が成氏を支え、関東管領上杉憲忠を山内上杉氏の家宰長尾景仲(昌賢)と扇谷上杉氏の家宰太田資清(道真)が支えており、上杉禅秀の乱いらいの仇敵同志が同じ政権を支えるという不安定な構造を持っていた。
 この対立が、宝徳二年(一四五〇)四月二十日に江の島合戦として表面化した。この日、太田道信・長尾景仲が成氏の御所を急襲し、成氏が江の島に難を逃れるという事件が起こったのである。翌日、急を聞いた小山・宇都宮・小田・千葉氏などが成氏に助勢し、上杉氏側が鎌倉から逃亡したのである。その後、幕府の仲介により両者は和睦したが、両者の緊張関係は継続されたままであった。