享徳四年一月五日の島河原合戦(神奈川県平塚市)を緒戦として、二十一日には武蔵国分倍河原(府中市)において合戦が行なわれた。この分倍河原における合戦では、成氏は府中高安寺に陣を取り、上野国から上州一揆・武州一揆等を率いてきた上杉軍を分倍河原・立河河原で迎え討った。この合戦は、両軍とも甚大な損害を受けたが、特に上杉方は大石房重・重仲を失ったばかりか、扇谷上杉顕房が夜瀬で自害し、上杉禅秀の子息犬懸上杉憲顕も深手を負い高幡(日野市)で自害した。この合戦で壊滅的な打撃を受けた上杉方は、常陸国小栗城(茨城県協和町)に敗走した(資一―735)。
図5―66 上杉憲顕の墓
日野市金剛寺境内
関東内乱の報に接した幕府は、上杉氏支持の立場を取り、当時在京していた上杉憲忠の弟房顕を上杉氏の当主につかせ、関東に下向させた。房顕は、越後の上杉房定、駿河の今川範忠の助勢を得て成氏追討の体制を固めた。
一方成氏は、親成氏派が多い北関東に移り、下総国古河を拠点とした。対する上杉方は、武蔵国五十子(いかっこ)(埼玉県本庄市)に砦を築き、ここを古河公方に対する前線基地とした。以降、享徳の乱は関東中央部を中心に推移し、古河に拠点を移した成氏を古河公方と呼ぶ。