享徳の乱

695 ~ 696
江の島合戦以降続いていた、鎌倉公方勢力と関東管領勢力の対立関係に決着をつけようとしていた足利成氏は、関東管領方の有力者長尾景仲が上野に下向した機会をとらえ、関東管領山内上杉憲忠の謀殺を図った。享徳三年(一四五四)十二月二十七日、成氏は偽って憲忠を御所に呼出し、そこで殺害したのである。これを契機に、文明十年(一四七八)まで続けられた内乱を享徳の乱と呼ぶ。
 享徳四年一月五日の島河原合戦(神奈川県平塚市)を緒戦として、二十一日には武蔵国分倍河原(府中市)において合戦が行なわれた。この分倍河原における合戦では、成氏は府中高安寺に陣を取り、上野国から上州一揆・武州一揆等を率いてきた上杉軍を分倍河原・立河河原で迎え討った。この合戦は、両軍とも甚大な損害を受けたが、特に上杉方は大石房重・重仲を失ったばかりか、扇谷上杉顕房が夜瀬で自害し、上杉禅秀の子息犬懸上杉憲顕も深手を負い高幡(日野市)で自害した。この合戦で壊滅的な打撃を受けた上杉方は、常陸国小栗城(茨城県協和町)に敗走した(資一―735)。

図5―66 上杉憲顕の墓
日野市金剛寺境内

 関東内乱の報に接した幕府は、上杉氏支持の立場を取り、当時在京していた上杉憲忠の弟房顕を上杉氏の当主につかせ、関東に下向させた。房顕は、越後の上杉房定、駿河の今川範忠の助勢を得て成氏追討の体制を固めた。
 一方成氏は、親成氏派が多い北関東に移り、下総国古河を拠点とした。対する上杉方は、武蔵国五十子(いかっこ)(埼玉県本庄市)に砦を築き、ここを古河公方に対する前線基地とした。以降、享徳の乱は関東中央部を中心に推移し、古河に拠点を移した成氏を古河公方と呼ぶ。