堀越公方

696 ~ 697
幕府は、関東の内乱状況に対して新たな対策をとった。将軍義政の弟政知を新たな公方として関東への影響力を強めようとしたのである。政知の関東下向は、長禄二年(一四五八)五月二十日あるいは八月十三日といわれているが、政知は結局鎌倉に入る事は出来ず、伊豆国堀越に拠点を据えた。これをもって足利政知は、堀越公方と呼ばれる。彼等の鎌倉府再建構想には関東管領上杉氏は外されていたと考えられており、政知が鎌倉に入れなかった理由は、上杉氏の反対があったからだとされている。政知に随行した陣容は、渋川義鏡・上杉教朝と幕府奉行人の朝日教忠・布施為基・富永持資等で、鎌倉に入れなかったとはいえ南関東の勢力のひとつになった。

図5―67 堀越御所庭園跡(静岡県韮山町)

 ここにおいて関東の勢力図は、下総古河の古河公方、上野・武蔵を中心とする上杉氏、伊豆堀越の堀越公方の三者が鼎立(ていりつ)する状況となった。従って多摩市域は上杉氏の影響下に置かれたのであるが、この上杉氏の勢力範囲内も武蔵五十子を拠点とする関東管領山内上杉氏と長尾氏が上野・北武蔵を、武蔵河越城を拠点とする扇谷上杉氏と太田氏が南武蔵と相模を主として勢力下に置いていた。しかし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内部はともに家宰の長尾氏・太田氏が握っていた。このため上杉氏勢力下の国人たちは、長尾氏あるいは太田氏に結集する傾向を見せていた。この構図は、のちに両上杉氏が対立する危険をはらんでいたのである。