図5―68 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
中世の鶴岡八幡宮は、神社とはいえ神仏習合のため供僧と呼ばれる僧侶が大きな勢力をもっていた。鶴岡八幡宮の長は別当と呼ばれ、そのもとに二五の坊で構成される供僧がいた。これを「本様供僧(ほんようくそう)」とも呼ぶ。供僧は、以前には「坊」で呼ばれていたが、応永二十一年(一四一四)以降は「院」を名乗っていた。また、供僧は補任のされ方によって「進止供僧(しんしくそう)(内方供僧)」と「外方供僧」に分れており、双方それぞれに衆会を開き合議制によって運営を行なっていた。なお、外方供僧では衆会を月毎に持回りで各坊が担当しており、その場所を会所と呼んでいた。進止供僧とは、別当が補任権をもつグループでこちらの方が数が多く、当初は一八坊、のち長禄・寛正年間になると二二坊に増えている。外方供僧は、公方供僧あるいは外様供僧とも呼ばれ、別当の権限が及ばず、恐らくは鎌倉公方の補任によるもので、進止供僧より優位性があったと見られている。そのほか重要な社務組織に「執行」があった。執行は、供僧中から選任され、鶴岡社の社務の実際を取り扱った(川上一九七八・山田一九八八・江橋一九八八)。
鶴岡八幡宮の所領支配は、「分田支配(ぶんでんしはい)」と呼ばれる特殊な支配方法をとっていた。鶴岡社における分田支配とは、ひとつの所領に対してその所領を二五に分割し、そこに一人づつ二五人の百姓を割り当て、それぞれを二五坊の供僧に割り当てるという支配方法である。しかし、所領の管理はそれぞれの供僧が個別に行なっていたのではなく、代官を補任してその任に当らせていた。その代官の経歴はさまざまで、所領近隣の武士、禅僧、山臥などが見られる。代官の選定は、執行の主導により供僧衆会の中で決定され、補任状は執行より発給されている。その際、補任された代官には、「衆中奉公」とよばれる供僧への奉公が義務付けられ、「郷務」と呼ばれる現地支配のほかに会所の番や所領への使節を行っていた(山田一九八八)。
川上淳「鶴岡八幡宮における供僧について」『駒沢史学』二五、一九七八年
山田邦明「室町期における鶴岡社の所領支配と代官」『三浦古文化』四四、一九八八年
江橋真弓「応永期鶴岡八幡宮の社務組織」『史翰』二〇、一九八八年