初めて吉富郷と鶴岡八幡宮との関係が見られるのは、康暦元年(一三七九)十一月三十日の鎌倉公方足利氏満御教書写(資一―700)である。この史料は、鎌倉公方足利氏満が雑賀民部大夫と布施得悦に対して宇都宮高貞の女子が領有していた吉富郷を鶴岡八幡宮に引き渡すように命じているもので、「預け状の旨を守り」とある事から、この打渡しに先立って鎌倉公方氏満が鶴岡八幡宮に吉富郷の「預け状」を発給していた事がわかる。さらに「預け状」とある事から、吉富郷が鎌倉府の直轄領であった事も推測される。
図5―69 鶴岡八幡宮社務組織図
次に、永徳三年(一三八三)九月十四日の鎌倉公方足利氏満寄進状(資一―701)では、氏満があらためて吉富郷を上下本地供護摩料所として鶴岡八幡宮に寄進している。恐らく、ここで初めて正式に吉富郷が鶴岡八幡宮料になったのであろう。なお、上下本地とあるのは、本宮(上宮)と若宮(下宮)の本地仏のことで、本宮の本地仏は聖観音菩薩と勢至菩薩、若宮の本地仏は十一面観音・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩のことである。
図5―70 鎌倉公方足利氏満寄進状
『鶴岡八幡宮文書』(資一―701)
この後、応永十八年(一四一一)七月八日に鶴岡八幡宮において、初めて別当尊賢のもとで長日本地護摩が始められ、その料所に吉富郷の内五ケ村が充てられている(資一―711)。この史料からは、この時既に吉富郷内に村が成立していた事が知られる。また、応永二十二年(一四一五)五月十五日には、同じく別当尊賢により下宮で最勝王経の講読と護摩供養が行なわれ、その料所に吉富郷内の中河原村が充てられている(資一―715)。この中河原村は、現在の府中市中河原に比定されるが、この時期の多摩川本流が現在より北側を流れており、この地が現在より多摩市域と密接な関係であった事を窺わせる。また、この中河原村は、先の史料に見る「吉富郷五ケ村」とは別の村であると考えられ、後の史料に見る「吉富郷六ケ村」「関戸六ケ村」が少なくとも十五世紀初頭には成立していた事がわかる。