吉富郷と鶴岡八幡宮

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南北朝の内乱以降、関東では断続的に兵乱が起きていたが、これは関東における領有関係にも大きな変動をもたらした。吉富郷についていえば、鎌倉時代のある時期には得宗領になっていたと考えられるが、南北朝内乱、特に観応の擾乱の際に宇都宮氏綱がその軍功により鎌倉府内部での地位を上昇させ、上野・越後の守護職を得ており、この時に吉富郷も宇都宮氏の所領になったのではないかと推測される。しかし、上杉憲顕が鎌倉府への復帰を認められると、越後守護職が憲顕に下され、これに反感をもった宇都宮一族の芳賀氏が、反乱を起こし貞治二年(一三六三)の武蔵苦林・岩殿山合戦に敗れた。また、応安元年(一三六八)には、平一揆の乱に宇都宮氏が同調し、鎌倉公方足利氏満の追討をうけて敗れている。これら一連の反乱により、宇都宮氏は吉富郷を収公され、吉富郷は鎌倉府直轄領になったと考えられる。
 初めて吉富郷と鶴岡八幡宮との関係が見られるのは、康暦元年(一三七九)十一月三十日の鎌倉公方足利氏満御教書写(資一―700)である。この史料は、鎌倉公方足利氏満が雑賀民部大夫と布施得悦に対して宇都宮高貞の女子が領有していた吉富郷を鶴岡八幡宮に引き渡すように命じているもので、「預け状の旨を守り」とある事から、この打渡しに先立って鎌倉公方氏満が鶴岡八幡宮に吉富郷の「預け状」を発給していた事がわかる。さらに「預け状」とある事から、吉富郷が鎌倉府の直轄領であった事も推測される。

図5―69 鶴岡八幡宮社務組織図

 次に、永徳三年(一三八三)九月十四日の鎌倉公方足利氏満寄進状(資一―701)では、氏満があらためて吉富郷を上下本地供護摩料所として鶴岡八幡宮に寄進している。恐らく、ここで初めて正式に吉富郷が鶴岡八幡宮料になったのであろう。なお、上下本地とあるのは、本宮(上宮)と若宮(下宮)の本地仏のことで、本宮の本地仏は聖観音菩薩と勢至菩薩、若宮の本地仏は十一面観音・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩のことである。

図5―70 鎌倉公方足利氏満寄進状
『鶴岡八幡宮文書』(資一―701)

 この後、応永十八年(一四一一)七月八日に鶴岡八幡宮において、初めて別当尊賢のもとで長日本地護摩が始められ、その料所に吉富郷の内五ケ村が充てられている(資一―711)。この史料からは、この時既に吉富郷内に村が成立していた事が知られる。また、応永二十二年(一四一五)五月十五日には、同じく別当尊賢により下宮で最勝王経の講読と護摩供養が行なわれ、その料所に吉富郷内の中河原村が充てられている(資一―715)。この中河原村は、現在の府中市中河原に比定されるが、この時期の多摩川本流が現在より北側を流れており、この地が現在より多摩市域と密接な関係であった事を窺わせる。また、この中河原村は、先の史料に見る「吉富郷五ケ村」とは別の村であると考えられ、後の史料に見る「吉富郷六ケ村」「関戸六ケ村」が少なくとも十五世紀初頭には成立していた事がわかる。