鶴岡八幡宮の吉富郷支配

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『当社記録』に吉富郷が登場するのは、寛正二年(一四六一)から同三年にかけての事である。この頃の関東は、享徳の乱の最中であった。本来の関東の主である鎌倉公方足利成氏が下総古河に移り地域政権化してしまうと、鎌倉内の寺社は最大の庇護者を失ってしまう。しかも、長禄二年(一四五八)になると、将軍足利義政の弟政知が伊豆堀越に下向し、南関東に影響力を持つ新たな地域権力が生まれており、古河公方・関東管領・堀越公方が鼎立(ていりつ)する複雑な政治状況になっていた。
 庇護者であった足利成氏の勢力範囲外に置かれた鶴岡八幡宮は、武士等の所領押妨に対して、今まで経験した事がなかったほどの労力を注がなければならなくなった。先ず、武蔵国内の所領押領に手を焼いた鶴岡八幡宮は、南関東で最も安定的な権力を持つ関東管領上杉房顕を頼り、押領人の詳細を記した文書を提出して所領の回復を願い出たのである。寛正二年四月二十六日、関東管領上杉房顕は鶴岡八幡宮の願いを聞き入れ、武蔵守護代の長尾尾張守景棟に鶴岡社所領の引き渡しを命じた(資一―737)。この一件について『当社記録』では、「今月(六月)十三日関戸六ケ村、今度長尾正賢(昌賢・景仲)の儀をもって、社家より惣社領に社家の代官を入部致さる処」(資一―738)、または「よって当年社家御吹挙をもって御申す間、既に管領の御教書をもって武州吉富郷六ケ村供僧領たる間、衆会にて請取るべし」(資一―742)と記しており、この時の「八幡宮領武州所々」の中には、吉富郷も含まれていたと考えられる。長尾昌賢は、関東管領山内上杉氏の家宰で武蔵国・上総国守護代をもつとめていた。恐らく鶴岡八幡宮は、山内上杉氏家宰の長尾昌賢に工作する事によって、社領打渡しの関東管領奉行人奉書を得たのであろう。
 寛正二年四月以前に不知行化していた吉富郷の回復に当って鶴岡社の供僧等は、通例通り代官を選定して吉富郷の請け取りをする事にした。請取の代官には、衆中奉公人の肥田主計助が任じられ、現地管理の代官には田口慶秋が任じられた。この代官補任にあたって執行と進止供僧の間だけで協議され、外方供僧の了承を得ないまま代官を補任したので進止供僧と外方供僧の間で対立が起きた。代官補任問題で立場を失った外方供僧は、吉富郷六ケ村の内中河原村の請取と代官への助成金提供を拒否したのである。しかし、請取の代官に補任された肥田は、六月に自らの裁量で中河原村まで請け取ったのである。一方現地の代官田口慶秋は、吉富郷六ケ村請取の既成事実を背景に外方供僧にも代官補任を要請し、代官に補任されている(資一―738)。
表5―6 寛正二年鶴岡八幡宮供僧構成表
区分 子院名 僧名 備考
外方供僧 香蔵院 珎祐
恵光院 快重
相承院 勝誉
進止供僧 荘厳院 俊朝
浄国院 慶範
安楽院 長運
朝宗院 仲智
正覚院 運瑜
我覚院 賢超
最勝院 弘尋
等覚院
普賢院 弘誉
如是院 賢教
花恩院 賢乗
宝瓶院 弘兼
紹隆院 任祐
金乗院 慶賢 吉祥院兼帯
海光院 運珎
吉祥院 慶賢 執行
慈薗院 任快
蓮華院 弘珎
増福院 快胤
大通院 弘紹
宝光院 弘樹
如意院 慶運

 この吉富郷代官田口慶秋は、どの様な人物であったのであろうか。『当社記録』には田口の素性を明らかにする記述はない。鶴岡八幡宮領の代官には、禅僧・山伏や社領の近隣に本拠を置く武士などが補任されている。たとえば、武蔵国足立郡佐々目郷においては荒川対岸の豊島郡に本拠を置く豊島氏が補任されている。そこで吉富郷付近で田口と関わりがありそうな地名・人物を探すと、「日奉姓小川氏系図」には由木重直の子孫に田口氏が見え、永禄年間には日野市金剛寺の門前周辺が「たの口村」と呼ばれ、平山越後守が領有していた事が解る(資一―802・803)。恐らく田口慶秋は、得恒郷に勢力を持っていた高幡高麗氏か平山氏の一族ではないだろうか。また、田口は太田資清と対立をしていることから長尾景仲につながる人物であった事が推測される(資一―740)。
 一応、寛正二年六月には吉富郷への代官入部が行なわれたのであるが、吉富郷現地では次の問題がひかえていた。吉富郷六ケ村の内鹿子嶋村が鎌倉建長寺の塔頭天源庵により押領されていたのである(資一―739)。また、同年九月二日には宇都宮氏が吉富郷に入部してきたとの注進が供僧中にもたらされた(資一―744)。これらはいずれも鎌倉に公方がいなくなったため、京都の幕府の政策により新たな関東支配体制を目指す堀越公方足利政知の出現によるものであった。即ち天源庵・宇都宮氏ともに鶴岡社の吉富郷領有を保障していた鎌倉公方が不在となり、新たな所領安堵(あんど)の権限を持つ堀越公方に自己の吉富郷内の所領領有の正統性を訴え、それを認められたことをもって吉富郷に入部してきたのである。彼等も闇雲な押領をしたわけではなく、鶴岡社への寄進以前の由緒を持っていたのであろう(山田一九八九)。これに対して代官の田口は武力排除を求めたが、鶴岡社の供僧中は堀越公方へ所領安堵の工作をする方針を選んだ(資一―745)。
 鶴岡八幡宮では早速衆会を開き対策を協議した。そこでも外方供僧と進止供僧の対立があったが、五十子(いかっこ)に在陣する関東管領上杉房顕に一〇貫文の一献料を支払い堀越公方への吹挙状を得て伊豆に向うことになった。その結果、堀越公方に三三貫文、宇都宮氏に五〇貫文を支払い鶴岡社の吉富郷支配は認められたようである。その後、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉関東侵攻まで規模を縮小しながらも鶴岡八幡宮の吉富郷支配は続けられた(資一―820)。
  山田邦明「享徳の乱と鶴岡社」『戦国史研究』一七、一九八九年