関戸ノ千石ハ小田原落城ノ上、山角牛太郎拝領有テ、千石余ノ処如何ナル子細有テヤ百草村・下落川村・貝取村・寺方村分郷シテ、今五百石トナル、
この史料は、後北条氏の旧臣山角氏が関戸郷の領主になった後、百草村・下落川村・貝取村・寺方村が他の旗本の所領になった。これを見ると、近世の百草村・落川村・貝取村・寺方村が吉富郷の内になっていたことが推測される。ただし吉富郷内の六か村がそのまま近世村に移行したともいえないので、百草村以下の近世村をそのまま残りの二か村に数えることは出来ない。従って、ここでは多摩市北部と日野市東部・府中市南部辺りが室町時代の吉富郷に比定される点を確認しておきたい。次にこれまで確認できた村について考えてみたい。
中河原村は、現在の府中市中河原に比定されるが、中世の多摩川は現在より北側を流れており、現在よりも多摩市域に近い位置関係にあった。この中河原の西側、関戸・一宮の北側には、青柳または青柳島と呼ばれる地名があり青柳氏という領主がいた。この青柳は近世になって多摩川の氾濫により現在の国立市青柳の地に移転する(『青柳根元録』)。
鹿子嶋村は、現在比定できるような地名が残っていない。鹿子嶋という地名から類推すると、恐らくは多摩川の河川敷か中洲のような場所にあったのではないだろうか。もしそうであるとすると、現在は失われた青柳の地が有力な候補になる。
勝河村も残された史料や地名からは比定地が特定できない。しかし、これが「かちかわむら」と発音されたとすると、「落川村」と近い発音になる。この地名がでてくる文書が(資一―811)、小田原にいたであろう松田憲秀のもとで作成されたことを考えると、あるいは音からくる誤記であったことも考えられる。近世の伝承では、落川村も関戸の内に入れられていたので、勝河村の候補地のひとつとして指摘しておきたい。
乞田村は、現在の多摩市乞田に比定される。『新編武蔵国風土記稿』貝取村の項には「當村ハモト乞田村ノ内ナリシト云。」とあり、中世の乞田村は近世の貝取村を含んでいたと考えられる。
また中世史料には出てこないが、小名の有山・原関戸を含む関戸村が想定される。残りの一か村については、定かではないが現在の一ノ宮地区、連光寺地区、東寺方・和田地区などの三つが想定される。中でも和田は『関戸旧記』によると和田を当所の内と表現されているので、もとは関戸郷の内と認識されていたのではないだろうか。
図5―71 吉富郷六ケ村想定図
『当社記録』には吉富郷現地の様子は、余り詳しく叙述されていないが、僅かなりともそれを窺い知ることが出来る。鶴岡八幡宮の吉富郷現地支配の拠点として政所が設置されていたが、どこに在ったのかは不明である。代官田口慶秋は、この政所を拠点に収納実務などを行なっていたのであろう。鶴岡社が吉富郷を請け取った寛正二年(一四六一)六月の翌月に政所や村々の代表者が、酒や金品を鶴岡社供僧へ貢納している(資一―741)。宗教権門たる神社が、荘郷の領主となる場合に、その祀る神を現地に勧請して支配の手段にする場合が多く見られる。吉富郷内と想定される地域にも日野市百草の八幡宮を始めとして、中河原村、貝取村、乞田村、寺方村、連光寺村に八幡社が所在する。もっとも中世東国における神祇ヒエラルヒーの頂点に鶴岡八幡宮が位置付けられ八幡宮が広範に分布していたことを考えれば、吉富郷内の八幡宮の存在も直ちに鶴岡社支配の結果であったとも断定は出来ない。
室町時代の吉富郷にどの様な在地勢力が存在していたかは余り明らかではないが、『関戸之記艸稿』によれば「伊豆の国堀越の御所に仕へし関戸駿河守杯も定かならす」とある(多摩市教育委員会一九八七)。また現在の東寺方に所在する吉祥山寿徳寺は、佐伯道永の開基と伝える(資二社経112)。さらにくだって天正十四年(一五八六)三月十二日、後北条氏家臣松田憲秀の又代官森岡某が逃亡したあとに、関戸郷の自治を任された百姓が六人であったことは、関戸郷が六か村で構成されていたことを示唆する(資一―810)。この六人百姓の内、有山源衛門は近世初頭の関戸村の名主、小磯氏は乞田村の名主を勤めていたことが知られる。
比留間一郎「資料紹介『関戸旧記』」『郷土たま』二、一九八三年
多摩市教育委員会『多摩市東寺方 杉田勇家所蔵文書(一)』一九八七年