鎌倉時代に東国の主要幹線であった鎌倉街道上道は、南北朝・室町時代においても重要な交通基盤であった。それは、南北朝・室町時代における東国の中心鎌倉府が鎌倉におかれ、府中が武蔵国の中心たる地位を保ち続けていたことによる。たとえば、上杉禅秀の乱の時には、関東管領上杉憲基が北武蔵の庁鼻和で軍勢を集結し鎌倉に帰還する際に、村岡・高坂・入間河・久米河・関戸・飯田を通過している(資一―717)。次いで、永享の乱・享徳の乱ともに相模国鎌倉を拠点とする鎌倉公方が、上野・北武蔵の軍勢を主力とする関東管領上杉氏の軍勢を迎撃するために府中高安寺に陣を取ったことは(資一―728・735)、右の状況を裏付けるものであろう。また、関戸や分倍河原・府中高安寺が軍勢の集結地に度々選ばれていたことは、交通の要衝であったこととともに広大な河川敷が中世都市府中に近接していたことにもよるのであろう。
京都において修験者を組織化しつつあった聖護院門跡の道興は、文明十八年(一四八六)六月北陸・東国に向けて旅に出た。その紀行文が『廻国雑記』として現在に残されている。道興は、相模大山寺から半沢を越えて霞の関に至っている(資一―766)。その後、道興は恋が窪・堀兼・入間川を通過しており、鎌倉街道上道を辿っている。
多摩市域周辺には、鎌倉街道の他に甲州街道が通っていた。現在の甲州街道は武蔵野台地上を通っているが、中世の甲州街道は史料上では「坂東道」との関係が考えられるが(『太平記』巻第三一)、伝承や遺構の上から府中市域内においては府中崖線の下を東西に通っていたと考えられている。これは、戦国時代になって滝山城や八王子城の重要性が増し、さらに近世になって江戸に幕府が置かれると完全に南北軸の鎌倉街道と東西軸の甲州街道の重要性が逆転したと考えられる。