多摩川水運

708 ~ 711
中世以前の多摩川の水上交通については、ほとんど明らかにされていない。ところが最近になって柘植信行氏によって新たな史料が発掘された(柘植一九九六)。それは、台東区浅草の浅草寺に伝わった『武蔵国浅草寺縁起』(『続群書類従』第二七輯下)である。
六条院御時仁安三戊子年三月に大衆同心に仏閣を修造せむとす。材木の杣境すでに僻り分窮ぬ人夫を連計すれば惣じて二千八百余人に当れり。見に纔に廿八人也。雖然夫より霊場まではこび出さむとするに甚もつてかたし。山沢澗水つきたり。洪水の力にあらずむば出しがたし。(中略)仍俄に山中に壇場をまうけて秘法を修す。其夜苗雲漠然として雷鼓制電す。大雨乍に降洪水天にはびこる。浩々として峰にのぼる。巨多の材木悉山より出終りぬ。然るに同五月朔日壬辰柱二本船につけて多波川の口より大井川の浦に来るに。

 若干の解説を加えると、仁安三年(一一六八)三月に浅草寺の寺僧らが堂舎の修造のために杣山から木材の搬出をする人夫を試算すると、二八〇〇余人の人数が必要となったが、二八人しか集められず洪水の力によってしか木材を山からおろすことができないことが解った。そこで山中において祈雨の秘法を修すると、たちまち大雨が降り、数多の材木がおろされたのである。そして五月一日になって船に柱二本を連結して多摩川河口より大井川の浦まで曳航したというのである。事の真偽はともかく多摩川をつかって木材を河口に下ろしたことは、縁起が作成されたとされる応永年間には一般に行なわれていた状況を示すものであろう。この縁起によれば、嘉慶元年(一三八七)にも同様の記述がある。中世の武蔵国において木材の大量消費地であった府中への木材の供給は、多摩川上流の杣保・船木田荘などから切り出された木材を多摩川の流れを使って下流へ流すことにより行なわれていたと考えられる。なお、この史料にある大井川は大日川のことで、現在の江戸川に相当する。従って「大井川の浦」とは、今の千葉県市川市行徳辺りを指すのであろう。
 多摩市域を含めた府中周辺の中世遺跡からは、輸入陶磁器や東海系陶磁器をはじめ関東以外の土地で生産された遺物が発掘されている。中でも府中市宮町一丁目・二丁目から発掘された常滑大甕は、最大径が一メートルもあるもので陸路より水路による運送が適しているように考えられる。これらの大甕は、中世の港湾都市であった品川から出土した常滑大甕との近似性も指摘されており(品川歴史館一九九三)、品川と府中が水上交通で結ばれていたことを推測させる。この品川と府中のつながりについては、武蔵惣社であった大国魂神社の祭礼が品川とも関わっており、品川が武蔵国の国府津ではなかったかとの指摘がある(高島ほか一九九二)。また、『川崎市史』通史編1の「中世川崎市域の荘園・公領等想定図」では、旧多摩川河口が大きく南に湾曲して江戸湾に注いでいたことが想定されている。これが正しいとすれば、その南にあった神奈川湊も国府津的性格を持っていたのではないだろうか。品川や府中が、伊勢湾沿岸の陶器生産地と水上交通によってつながっていたことは常滑大甕の発掘によっても知られるが、綿貫友子氏は「武蔵国品川湊船帳」の分析を通して、十四世紀末の品川湊や神奈川湊と伊勢湾沿岸が、海運により交流があったことを具体的に実証している(綿貫一九八九)。品川や神奈川が武蔵国府の外港として機能していたことは、中世の多摩川が物流の面で多摩川流域の人々に重要な役割を果たしていたことが知られる。

図5―72 府中市宮町出土常滑大甕(右)・品川歴史館蔵常滑大甕(左)


図5―73 多摩川河口部港津図

 また、現在の利根川は旧常陸川を流れ銚子から太平洋に注いでいるが、中世の利根川は江戸湾に注いでいた。この旧利根川流域には、船霊信仰に基づく氷川女体社あるいは女体社と呼ばれる神社が数多く分布していた。その女体社が多摩川流域にも分布していることに注目した牛山佳幸氏は、旧利根川水系と多摩川水系の水運業者の往来が、多摩川流域に女体社が分布する背景にあったことを指摘している(牛山一九九三)。
 中世の多摩川水運と多摩市域の関わりは皆目不明であるが、近世においては対岸への渡し船の運行や関戸河岸の存在が指摘できる(表紙見返しの『調布多摩川惣画図』参照)。陸上交通の要であった中世の関戸は、大栗川の下流辺りに河岸を設けていたのかもしれない。
  柘植信行「能ケ谷地域の歴史的特性について」『能ケ谷出土銭調査報告書』一九九六年

  品川歴史館『海にひらかれたまち―中世都市・品川―』一九九三年

  高島緑雄・峰岸純夫・柘植信行「江戸湾岸の中世史」『史誌』三六、一九九二年

  綿貫友子「「武蔵国品河湊船帳」をめぐって」『史艸』三〇、一九八九年

  牛山佳幸「旧利根川水系と多摩川水系の交流」『河川をめぐる歴史像』一九九三年