石造物の流通

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木材・陶磁器の他に河川による流通が想定できるものとして石造物の流通がある。その中で最も研究が進んでいるものが板碑(いたび)である。関東における板碑の形式を大きく分類すると「武蔵型板碑」と「常総系板碑」の二つに分けられる。武蔵型板碑は、荒川上流や入間川上流に産出する緑泥片岩を素材に、頂部を山形に加工し二条線・本尊・蓮座・銘文などを刻んだもので荒川流域を中心に分布する。常総系板碑は、筑波に産出する黒雲母片岩を素材にしたもので、黒雲母片岩がやや硬質であるため武蔵型板碑に比べやや加工は粗く、小貝川より東を中心に分布する。多摩地区に分布する板碑は、一部の例外を除きほとんどが武蔵型板碑である。

図5―74 板碑解説図

 板碑の加工・流通に関する考え方として、①採石場近くの工房で、ほぼ完成品に近い製品を作りあげ、銘文などを現地で加える場合。②原石のまま輸送されて現地で作成される場合。③採石場近くの工房で、外形だけが整えられた半製品を流通中継地で加工し、そこを中心に流通した場合が考えられている。実際の板碑の流通は、これらの状況が複合していたと考えられるが、多摩川流域では具体的にどの様に流通していたのであろうか。その手掛かりとなったのが蝶型蓮座板碑である。蝶型蓮座板碑の特徴は、小型で規格化されていること、板碑の主尊の下に刻まれる蓮座が線刻で蝶の形に図案化されていること、その下に刻まれる花瓶も図案化されていること、主尊はキリーク(〓、阿弥陀如来)一字のみであること、二条線は刻まないこと、年紀銘は年までであることなどがあげられている。この蝶型連座板碑は、十四世紀から十五世紀前半に集中して造立され、多摩川下流域に濃密に分布している。これらのことから、採石場近くで規格化された外形のみの半完成品を作成し、水運をもって大量に運送し、多摩川下流域の工房でさらに加工された地方色のある板碑が、多摩川中流域を中心に流通したと考えられている(渡辺一九九〇)。右のような視角により府中市周辺における十四世紀後半から十五世紀前半の阿弥陀種子板碑を分析した深沢靖幸氏は、府中近辺においても板碑作成の最終工程を担う生産組織の存在を推定している(深沢一九九六)。いずれも多摩川流域における板碑の流通に多摩川水運が関わっていたことを示唆するものであろう。

図5―75 蝶型蓮座板碑

 多摩川上流部には、緑泥片岩とは違う石材で板碑を作成する地域があった。現在のあきる野市横沢・三内・高尾・網代、日の出町平井から産出する砂岩で伊奈石と呼ばれる。伊奈石板碑は武蔵型板碑が広範に流通していたので、あきる野市・日の出町など多摩川上流域を中心に分布するが、他の伊奈石製石造物は多摩川中流域を中心にもう少し広く分布している。中世においては、五輪塔・宝篋印塔などが流通していたと考えられ、多摩市においてもその遺物が確認される。東寺方の宝泉院には、阿弥陀三尊の種子と「永正」銘を持つ伊奈石板碑が残されている(資一―777)。落合のTNTNo.七四二遺跡は丘陵斜面から裾部にわたる墓地であったが、そこからは武蔵型板碑の他に伊奈石製と見られる五輪塔が出土している。また、関戸五丁目の通称「無名戦士の墓」にも伊奈石製とおぼしき五輪塔などの残欠がある。伊奈石製品は、このほかに石臼が大量に流通していたらしい(伊奈石研究会一九九六)。
  渡辺美彦「多摩川流域に見られる地方色のある板碑」『地方史研究』二二七、一九九〇年

  深沢靖幸「武蔵府中における板碑の型式と組成」『府中市郷土の森紀要』九、一九九六年

  伊那石研究会『伊奈石』一九九六年