多摩市一ノ宮の小野神社でも市が開かれていた痕跡がある。明治三年(一八七〇)十一月の小野神社明細書上には、「当今一宮村ノ内、祓塚・神戸・イチ場ナドト申小地名有之」とある(資二社経16)。これが中世の現状にまで遡るかは定かではないが、何れかの時期に小野神社近くにおいて市が開かれていたことを示すものであろう。また、戦国時代の関戸において六斎市が開かれていたことは著名であるが、室町時代においても開かれていたかどうかは定かではない。
市場のような商取引が行なわれる場では、銭貨やそれに相当する現物によって交換が行なわれていた。ところが中世の日本列島では、国家的な貨幣発行は行われておらず、銭貨の供給はもっぱら対外交易で得られた銭貨を流通させていた。また、銭貨に代替させるものとして米などの現物でも取引が行なわれていた。近年、発掘調査や土木工事などで出土する大量の埋蔵銭が注目されている。多摩市周辺では、町田市能ケ谷の約九〇〇〇〇枚もの銭貨が発掘されたのを始め、八王子市南大沢のTNTNo.四八四遺跡、同No.三九五遺跡、八王子市館町、町田市森野、福生市一九号遺跡、府中市宮西町、調布市佐須町二丁目、同市下石原遺跡等で出土している。これら大量の銭貨を埋蔵した理由として、緊急避難のため、備蓄のためなどの理由が考えられるが、その一例として『新編武蔵国風土記稿』拝島村大日堂の項に次のような記述がある。
拝島大日堂ハ開基北条氏直ノ臣石川土佐守ナリ、(中略)此石川ハ拝島・羽村・久保・雨間・高月ノ五村ヲ領セシヨシ、一門ニハ三田弾正・羽村兵衛大夫・三沢兵庫介・乙畑孫三郎・有山内記ナドイヘル者ヲ始トシ、大檀那十六人ニテ、後世修補ノ為ニ、本尊ノ下ノ地ヲ穿ツコト一丈二尺、永楽銭千貫ヲ収置ト、棟札ニ載セテアリト、
図5―76 町田市能ケ谷出土銭
また、多摩市内においても『関戸旧記』には、「亦、当所ノ中ノ小名和田原トイフ所ニ古墳アリシガ、凡七八十年以前ニ堀崩シタルニ銭十貫文許リ、其余太刀并鍔・矢ノ根ノ類ヲ出ス。」とある(比留間一九八三)。この場合、太刀以下の出土品は古代の遺物であったかもしれないが、銭十貫文は中世のものであったと考えられる。
比留間一郎「資料紹介『関戸旧記』」『郷土たま』二、一九八三年