北条早雲と関東の情勢

717 ~ 720
戦国時代の幕を開いた代表的な人物の一人として北条早雲があげられる。北条早雲という名前は後世の通称で、史料上には伊勢新九郎のちに入道して早雲庵宗瑞とある。しかし、通称の方が広く通用しているのでここでは北条早雲と表記することにする。また、一般に早雲以下の五代を鎌倉時代の北条氏と区別するために後北条氏と呼んでいるが、ここでは史料の表記に従い北条氏と呼称する。
 北条早雲は、戦国時代の人物の中で最も著名な人物の内の一人であるが、その前半生には不明な部分が多い。また、北条早雲の出自には諸説あるが、室町幕府の政所執事伊勢氏の一族で幕府申次(もうしつぎ)衆であった伊勢新九郎盛時に比定する説が有力である(池上一九九二)。北条早雲の姉もしくは妹は、駿河守護の今川義忠の妻となり北川殿と呼ばれ、龍王丸(のちの氏親)の母になっていた。おそらく早雲は、その縁を頼って駿河に居を移していたのであろう。今川義忠の戦死後、嫡子の龍王丸と一族の小鹿範満の家督争いに敏腕を振るい和議を整え頭角を顕わしたのが早雲であった。時に文明八年(一四七八)、早雲は四五歳であった。
 今川氏の家督争いの調停では、龍王丸の成人までは小鹿範満が後見をつとめることになっていたが、長享元年(一四八七)十一月九日早雲は小鹿範満を攻めて自殺に追込み、龍王丸を今川氏の家督につけたのである。早雲はこの功績により興国寺城主となり富士下方一二郷を与えられた。隣国の伊豆には堀越公方が依然として一程度の勢力を保っていたが、延徳三年(一四九一)四月三日に堀越公方足利政知が死亡すると、長子足利茶々丸は七月一日に異母弟潤童子とその母円満院を殺害して堀越公方を継承し、さらに家臣を殺害したため伊豆国は内乱状態になった。これを好機と見た早雲は、明応二年(一四九三)に堀越御所を攻めて伊豆を支配下においた。その後も茶々丸は早雲への抵抗を続けていたが、明応七年八月ついに茶々丸は自害した。これをもって関東に一定の影響力を持ち続けた堀越公方は滅亡した(家永一九九四)。
 一方、連合して古河公方勢力に対峙(たいじ)していた山内上杉氏と扇谷上杉氏は、内部に長尾景春の乱が発生し、古河公方との抗争継続が困難な状況に陥っていた。そこで両上杉氏は、古河公方と幕府間の和睦仲介を条件として文明九年(一四七七)十二月に成氏と和睦した。その後、古河公方と幕府の和睦は難航していたが、越後の上杉房定の奔走により文明十四年十二月に都鄙(とひ)(幕府と古河公方)の和睦が成立した。しかし、この和睦は新たな紛争の種をまいていた。山内上杉顕定が越後との連係を強める一方で、扇谷上杉定正は家宰太田道灌等の働きにより独自の勢力を拡大させつつあったのである。両上杉氏の対立は、文明十八年(一四八六)七月二十六日に太田道灌が主家の扇谷定正の命で謀殺され、翌長享元年(一四八七)十一月に山内上杉氏の軍勢が下野国観応城を攻めたことにより表面化した。両者の争いは武蔵・相模両国が主戦場となり、有力家臣である太田道灌を自らの手で失ってしまった扇谷氏が全般的に不利な情勢であった。長享二年には相模国実蒔原・七沢要害・小田原城、武蔵国須賀谷・高見原で合戦が行なわれている。明応三年(一四九四)になると山内顕定は攻勢を強め、八月十五日に市内の関戸要害、九月十九日に相模玉縄要害(神奈川県鎌倉市・藤沢市)を攻略した。劣勢に立たされた扇谷定正は、北条早雲に援軍を頼み十月二日には高見(埼玉県小川町)において顕定と対陣していたが、翌三日に定正は荒川渡河中に頓死してしまう(資一―772)。扇谷氏の家督は甥の朝良が継いだ。

図5―77 山内上杉氏・扇谷上杉氏略系図


図5―78 関戸要害(『江戸名所図会』)

 扇谷定正死亡の少し前、八月二十六日には扇谷上杉氏の重臣で小田原城主の大森氏頼が死亡し、九月二十三日には新井城主三浦時高が養子の三浦義同に殺されており、主家の扇谷上杉氏同様代替りが行なわれていた。北条早雲は、この機を逃さず明応四年秋に小田原城を落とし、相模攻略の拠点を築いた。
  池上裕子『日本の歴史10 戦国の群像』一九九二年

  家永遵嗣「堀越公方府滅亡の再検討」『戦国史研究』二七、一九九四年