立河原合戦と権現山城の戦い

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扇谷上杉氏寄りであった古河公方足利政氏は定正の死後山内上杉氏と結びつき、扇谷上杉氏を取巻く環境はますます厳しいものになっていた。永正元年(一五〇四)九月二十七日、北条早雲と駿河の今川氏親の援軍を得た扇谷朝良は、立川普済寺に布陣していた山内顕定を攻めた。この立河原合戦は多数の戦死者を出し、山内上杉氏は本拠の鉢形城に撤退した。この合戦に山内方として参戦していた毛呂顕季は、戦死者の供養のために銅鉦四八を作成したが、その内の一つが現存する。銘文は次の通りである。
〓為百万辺立川原合戦々死、不知員、依之思立者也、永正元年甲子九月廿七日毛呂土佐入道幻世、


図5―79 銅鉦

 立河原合戦の前後、日本列島は旱魃による飢饉に襲われていた。山内顕定の侵攻は、政治的な権力闘争の他に食料確保の一面も内在していたのではないだろうか。連歌師の宗長は、立河原合戦に参戦した今川勢の兵から聞いた戦場の様子を『宗長手記』に「行かたしらず二千余、討死・討捨・生捕・馬・物の具充満」と記している。ここでも奴隷狩や略奪が行なわれていたのであろうか。
 再起のために越後の上杉房能に援軍を要請した顕定は、越後守護代の長尾能景の助けを得て、十二月一日に武蔵椚田城(八王子市)を落とし、扇谷上杉氏の主要な拠点であった相模実田城(神奈川県平塚市)を攻めて十二月二十六日にこれを陥落させた。勢いづいた顕定は、翌永正二年三月に扇谷上杉氏の本拠武蔵河越城を攻めた。進退きわまった扇谷朝良は、自らの引退と朝興へ家督を譲ることを条件に和議を受け入れたのである。この上杉氏の統一により、南関東の政治的対立は上杉氏と関東に手を伸ばしてきた北条早雲との抗争にシフトしていくのである。