早雲が伊勢姓であったことは既に述べたが、近衛尚通の日記『後法成寺関白記』大永三年(一五二三)九月十三日条に氏綱のことを「北条」と記しており、それ以前に氏綱が北条に改姓したことが解る。この北条改姓は、鎌倉時代相模・武蔵の主であった北条姓を名乗ることにより相模・武蔵支配の正統性を主張し、上杉氏に対抗するためのものであったことが指摘されている(川崎市一九九三)。
相模を制圧した北条氏綱は、武蔵進出の機会をうかがっていたが、扇谷上杉氏の重臣太田資高が北条氏に内通するという好機を迎えた。資高は、扇谷定正に謀殺された太田道灌の孫であった。大永四年正月、氏綱は軍勢を品川に進め、十三日に高縄原において両軍が激突した。結果は扇谷朝興の敗北に終り、朝興は河越城に敗走した。江戸城は、北条氏武蔵侵攻の橋頭堡(きょうとうほ)になったのである。氏綱は、翌大永五年二月に太田資頼の岩付城(埼玉県岩槻市)を落とし、三月には大石定重が拠る葛西城(葛飾区)を攻めている。同年八月二十二日、白子原合戦(埼玉県和光市)で北条方から勝利をおさめた扇谷朝興は、大永六年九月九日に山内憲寛とともに小沢城(神奈川県川崎市)を攻めて落城させている(賢一―778)。この小沢城をめぐる争奪戦はその後も続けられ、享禄三年(一五三〇)正月六日には再び扇谷朝興が小沢城・瀬田谷城(世田谷区)を奪取したが(資一―779)、同年六月十二日に小沢原において北条氏康と扇谷朝興の間で合戦が行なわれ、北条方の勝利に終った(資一―780)。この小沢原合戦により北条氏は多摩川中流域の支配を確実にしたと考えられ、天文三年(一五三四)には、河部八ケ村(百草・上和田・中和田・寺方・落川・関戸・原・一宮)の検地が行なわれている(資一―782)。
図5―80 小沢城跡(神奈川県川崎市)
天文六年七月、北条氏綱は扇谷朝定の河越城を攻めこれを奪うが、朝定は執拗に河越城奪回を試みた。天文十四年(一五四五)、朝定は山内憲政・古河公方足利晴氏の協力を得て、同年十月河越城を包囲した。翌天文十五年四月、北条氏康は八千余の軍勢を率いて救援に駆けつけ、四月二十日夜に奇襲をかけて上杉・古河公方連合軍を撃退したのである。この河越夜戦により扇谷朝定は戦死し、扇谷氏は滅亡した。またこの合戦の結果、上杉方につく有力者は太田資正・成田長泰のみとなり、北条氏は武蔵支配をほぼ確実にしたのである。なおこの合戦の勲功により、垪和左衛門大夫は小沢郷二一八貫の地を宛行われている(資一―783)。
川崎市『川崎市史』通史編1、一九九三年