北条氏の検地のうち特に大規模に行われたのが、永正十七年(一五二〇)、天文十一・二年(一五四二・三)、弘治元年(一五五五)の各検地である。永正十七年の検地は、永正十五年に早雲から家督を相続した氏綱が小田原城周辺と鎌倉に実施したものである。天文十一・二年の検地は、天文十年に家督をついだ氏康が、伊豆の韮山近辺と、相模では現在の厚木市域を中心に津久井から平塚市・茅ケ崎市に至る相模川沿い一帯、武蔵では町田市域・川崎市域など多摩川中流域の右岸と横浜市域に実施したものである。弘治元年の検地は、同じく氏康が河越合戦勝利後に、東松山市域・川越市域を中心とした武蔵北部・中部の入間郡・高麗郡・比企郡一帯に広く行ったものである。永正十七年の検地と天文十一・二年の検地は、家督相続にともなって行われた代替り検地といわれるもので、北条氏検地の一つの特徴とされる(佐脇一九六三)。四代氏政と五代氏直の家督相続時には検地は行われていないが、氏直の家督相続にあたっては、かわりに反銭が増徴されている。
図5―81 北条氏合戦・検地施行地概略図
※週間朝日百科『日本の歴史』4 鎌倉幕府と承久の乱(朝日新聞社、1986年)に掲載の図「鎌倉街道」をベース・マップとして使用した。
北条氏の検地は郷村を単位として行われたが、検地帳に屋敷の記載がなく、一反が三六〇歩であり、田畠にも上・中・下・下々などの等級付けがないなどの点で、近世の検地とは異なっている。さらに、郷村からの指出(さしだし)にたいして検地奉行が現地に赴いて調査し、記載内容を確認するというものであった(池上一九九二)。具体的には、一筆ごとに田畠の別、面積、名請人が確定された後、田の総面積には反あたり五〇〇文、畠の総面積には反あたり一六五文の基準値が乗じられてそれぞれの分銭が算出され、その合計額が把握された。それまでの無年貢地や低年貢地にも一律に同じ基準で賦課されたため、郷村の負担は大きく増すことになった。検地の後、郷村には、田畠それぞれの総面積と分銭、そこから差し引かれるべき公事免(くじめん)や仏神田、井料(用水の維持経費)などの額、そして最終的に確定した定納額(年貢高)が記載された検地書出(かきだし)が発給された。どれだけの差し引き額を獲得しうるかは郷村側の力量によるところが大きかった。百姓は確定された年貢高を直轄領の場合は北条氏に、給人領の場合は給人に上納した。米や麦で納める場合は、年ごとに一〇〇文につき米は一斗四升、麦は三斗五升などと納法が定められ、その計量には榛原(はいばら)枡という領国内で統一された枡が用いられた。その後の検地で新たに把握された田畠の増分は、まずは直轄領に組み込まれるのが原則であった。
給人に宛行われた知行高(=年貢高)も貫高で表示され、給人は知行高に応じた軍役を北条氏に負担した。永禄二年(一五五九)作成の『北条氏所領役帳』は、その頃まだ編成されていない滝山・八王子衆や鉢形衆などの記載がない点で限界はあるものの、永禄二年段階での給人の知行高と軍役負担のあり方を網羅的に示したものである。
多摩市域には後述するように、武蔵国でもっともはやく天文三年十月に「川部八村」(資一―782)、元亀三年(一五七二)に落合村に検地が実施されている。周辺地域では、町田市域と川崎市域に天文十二年の代替り検地が行われている。『北条氏所領役帳』によれば、小山田荘の成瀬・小川・高ケ坂・森・木曽・山崎・町田・直(能)ケ谷・真光寺・金森・大谷・金井・広袴・木倉(以上、町田市)・黒川(川崎市)・靏(鶴)間(町田市、神奈川県相模原市・大和市)が、天文十二年に合計貫高四一九貫八一二文と定まり、武田信玄の家臣で北条氏には他国衆として遇されている小山田信有が知行している(資一―797)。また、布施蔵人佑は麻生(川崎市)八二貫五〇〇文を知行しているが、このうち四七貫二〇〇文は「癸卯検地増分」である。麻生には癸卯(天文十二年)以前に検地が行われており、癸卯検地でそれまでの倍以上の貫高が新たに掌握されたことがわかる。そのほか、天文二十三年の検地で、符(布)田郷(調布市)が二七四貫三〇文、深大寺屋敷分(同)が一一貫五〇〇文と定まり、それぞれ中条出羽守と太田大膳亮が知行している。
佐脇栄智「後北条氏の検地」『日本歴史』一七七、一九六三年、同氏『後北条氏の基礎研究』一九七六年に再録
池上裕子『集英社版日本の歴史10 戦国の群像』、一九九二年